学芸員エッセイ その5 「坂本乙女について」

坂本乙女について

 龍馬の生まれたまち記念館の中庭で、11月15日、龍馬の姉・坂本乙女像の除幕式が行われた。仁王立ちした堂々とした風格は、まさに乙女のイメージにピッタリであり、たいへん勇ましい。全国ニュースで報道された影響もあってか、さっそく各地から大勢のお客様に来ていただいており、新たな記念撮影スポットともなっている。
さて、その有名な乙女であるが、その生涯のエピソードについては、「龍馬を育てた」以外に詳しく知っている人は少ないかもしれない。かくいう筆者も、当館に勤務するまではそれほど関心のある人物ではなかった。しかし、調べてみると、これがなかなか面白いのである。

 乙女は、天保3(1832)年1月1日、父・八平と母・幸の間に生まれた。本名は「留(とめ)」であり、「おとめ(乙女)」は当て字である。きょうだいは兄・権平と長姉・千鶴、次姉の栄であり、龍馬はその3年後となる天保6(1835)年11月15日に生まれている。母・幸が弘化3(1846)年に死去した後、龍馬の母代わりとなって教育したと言われる。(実際は、龍馬の少年時代に与えた影響力は、継母の伊与のほうが大きいのではないかと思われる)
 人物は、「男勝りの豪快な女」のイメージがあるが、三味線、一絃琴、謡曲、浄瑠璃、琵琶、舞踊などの芸術的な技能も多彩であった。また、剣術や長刀(薙刀)、馬術、水泳などにも通じており、文武において高い能力を持っていたらしい。身長は5尺8寸(約176cm)、体重は30貫(約112kg)もあったそうで、成人男子の平均身長が155cmほどであった当時の人々には、途方もない大きさに感じられたことだろう。
 安政3(1856)年、香美郡山北村(現・香南市)出身の医者・岡上樹庵(おかのうえ・じゅあん)に後妻として嫁ぎ、その2年後には長男・赦太郎(しゃたろう)が誕生するが、のちに離婚し、坂本家に戻ることとなる。
 龍馬は、脱藩後も乙女に複数手紙を送っており、いかに仲が良かったがよくわかる。その手紙の中では、乙女のことを「おとめさま」「乙あねさん」「乙大姉」「をにおふさま(お仁王様)」などと多彩な呼び方を用いており、手紙の書き方も平仮名や話し言葉を多用するなど、親しみがこもった内容となっている。前述の離婚の後、出家しようかと悩んでいた乙女に対して「僧侶になってあちこちの国を回れば、お金はもらえるから旅費はいらない」「どうせこの世は三文五厘。ぶんと屁をするくらいの気持ちでやってみよ」などと、冗談を交えて思いとどまるように説得しているのが面白い(文久3〈1863〉年6月29日 通称「日本の洗濯」の手紙)。また、この手紙では、龍馬は乙女のことを「天下第一おふあらくれ先生(天下第一の大荒くれ先生)」などと表現している。
 龍馬の死後は、坂本家に身を寄せた妻・お龍の面倒をみたという。お龍はその後坂本家から去っているので乙女との不仲が原因ではないかとの説もあるが、お龍はのちに「乙女姉さんは、お仁王というあだ名があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。私が土佐を去る時も船まで見送ってくれました」(『千里駒後日譚』より)と証言している。
晩年は、「独」と改名、権平の養子・直寛(南海男)の世話になり、明治12(1879)年8月31日に壊血病のために48歳で死去した。墓は、高知市丹中山の坂本家墓所にある。

 前述のとおり、龍馬は乙女宛で多くの手紙を残している。現在、私たちが龍馬の活躍を色々知ることができるのは、それによるところが大きい。やはり乙女は偉大である。乙女あっての龍馬とも言えよう。

≪参考文献≫
『高知県人名事典 新版』 1999年9月1日 初版発行
 編集:『高知県人名事典 新版』刊行委員会 発行所:高知新聞社 発行者:岩井寿夫
『龍馬書簡集』 2006年2月28日 初版発行
 発行者:高知県立坂本龍馬記念館 制作:高知新聞企業文化出版局出版調査部
『ようわかるぜよ!坂本龍馬』 2009年8月3日 初版発行
 著者:木村武仁 発行者:尾上重道 発行所:京都新聞出版センター
『龍馬の手紙』 1984年11月24日 初版発行
 著者:宮地佐一郎 発行人:赤尾一夫 発行所:株式会社旺文社
『龍馬、原点消ゆ』 2006年12月20日 初版発行
 著者:前田秀徳 発行者:星山佳須也 発行所:株式会社三五館


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