学芸員エッセイ その19「四万十市と幕末維新」

四万十市と幕末維新

 筆者は先日、高知県四万十市を訪れました。この地で生まれた明治時代の思想家・幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)の命日(1911年1月24日)に合わせた墓前祭とそれに関連したシンポジウムへの参加が目的です。この日、四万十市は雪が降っており、高知では珍しい一面の銀世界が広がっていました。墓前祭はこの雪景色の中で行われ、県内外から多くの方々が集まりました。(写真の中央部が秋水の墓です)
学芸員エッセイ 「四万十市と幕末維新」

 本日のエッセイでは、この四万十市にゆかりのある歴史上の人物を三人ほど紹介いたします。四万十市は、昨年、映画「あらうんど四万十 ~カールニカーラン~」の舞台となったことで話題になりましたが、実は幕末維新史においても、多くの逸材を輩出している地なのです。

 最初に紹介するのは、幕末の志士・樋口真吉(ひぐち・しんきち)です。昨年、龍馬の生まれたまち記念館ではこの人物に関する企画展を行いましたが、その際に地元の方々からも貴重なご意見をいただきました。
学芸員エッセイ 「四万十市と幕末維新」

 文化12(1815)年11月8日、この地に生まれた真吉は、若い頃から剣術に優れ、砲術を学び、高い学識を持つ人物であったようです。ペリーが浦賀に来航し、動乱の時代が始まると、土佐でも勤王志士が活動するようになります。しかし、真吉は決して過激路線には走らず、土佐藩の上層部との信頼もしっかりと構築していました。また、真吉は日記を多く書いており、幕末動乱の目撃談をつぶさに記録しています。
 真吉を一言でいうならば、「幕末の胎動期から激動期、そしてその終焉までを目撃した男」といえるのかもしれません。特に幕末史における真吉を理解するにあたっては、ペリー来航以前の外交史(ロシアの来航、フェートン号事件、異国船打払令など)を押さえておく必要があると思います。「黒船」はある日突然現れたわけではなく、18世紀末からすでに日本近海には外国船がたびたび出没し、幕府は頭を悩ませていました。龍馬や武市半平太より20年ほど早くに生まれた真吉は、鎖国体制が揺らぎつつあった幕末前夜の状勢も目撃していたのです。真吉に注目すれば、幕末史をより広く、深く理解できるかもしれません。

 次は、安岡良亮(やすおか・りょうすけ)です。良亮は、冒頭に記述した幸徳秋水の母のいとこに当たる人物で、文政8(1825)年に生まれました。真吉同様に文武両道の優秀な人物であったようです。
 幕末の動乱が始まると真吉とともに国事に奔走し、やがて討幕を目的とした「薩土密約」にも参画しました。その後、戊辰戦争で板垣退助率いる迅衝隊に参加し、同隊の幹部にも任命されました。その中で、新選組の局長・近藤勇を処刑させたエピソードがよく知られています。
 戦争のさなか、流山(現・千葉県)で捕縛された近藤は、板橋(現・東京都)に送られ、そこで裁きを受けました。新選組は、幕末の京都で多くの勤王志士を殺しており、その中には土佐藩の人物もいました。ゆえに、良亮らにとって、近藤は許しがたい相手であったことでしょう。良亮は、土佐出身の谷干城(たに・たてき)とともに、近藤の斬首を強く主張し、これが新政府軍に受け入れられて、刑が執行されました。写真は、板橋にある近藤の墓です。
学芸員エッセイ 「四万十市と幕末維新」

 最後に、藤本淳七(ふじもと・じゅんしち)です。淳七は、文政10(1827)年に生まれた幕末の志士で、龍馬が成し遂げた偉業として知られる大政奉還(幕府が朝廷に政権を返上すること)に関わった人物です。
 日本が大きく変わろうとしていた慶応3(1867)年10月3日、土佐藩から「大政奉還建白書」が幕府に提出されました。この建白書の執筆を担当したのが、淳七と海援隊の長岡謙吉(龍馬の秘書役)だったのです。淳七は身分こそ低かったのですが、土佐藩の外交役として活躍し、漢学に通じていました。それらの能力を買われての大役であったと思われます。
 同月13日、京都の二条城「二の丸御殿」(写真下)で将軍・徳川慶喜は各藩代表者を集めて大政奉還に関する会議を行いました。そして翌日、慶喜は政権の返上を朝廷に奏上しました。約260年続いた江戸幕府、そして700年近く続いた日本の武家政権は、こうして終わりを告げたのです。
学芸員エッセイ 「四万十市と幕末維新」

 四万十市には、他にも幕末維新期に活躍した人物が多々いました。彼ら一人一人が新しい時代を切り開いた立役者であり、功労者であるといえるでしょう。


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