学芸員エッセイ その25「谷干城と吉松速之助」

谷干城と吉松速之助

学芸員エッセイ 「谷干城と吉松速之助」
 龍馬の生まれたまち記念館では、7月27日~8月26日まで企画展「近代日本の遺墨展」を行います。これは、幕末から昭和にかけての日本史に名を刻んだ人々が遺した書を一堂に展示するという内容で、前期(7月27日~8月11日)と後期(8月13日~8月26日)に分けて開催します。前期は薩摩・長州・土佐・肥前のいわゆる「薩長土肥」出身の人物(ただし、「肥前」に関しては「肥前藩」ではなく「肥前国」へと対象を広げているので、一部、現・長崎県大村市の人物も含んでいます)、後期は東北、関東、中部、関西、中四国、九州の人々及び幕臣たちが書いた作品を紹介します。
 人物は、政治家や文化人、軍人など多彩なラインナップで、彼らの作品の数々からその人となりや歴史的背景を読み解きます。日本史を彩った多くの人々が遺した直筆の作品がこれほど揃うのは、おそらく当館始まって以来のことではないかと思われます。ぜひ、前後期の2回ともご覧いただければ幸いです。
学芸員エッセイ 「谷干城と吉松速之助」
 さて、本日は同企画展に出品する史料を一つご紹介しましょう。それは、土佐出身の軍人・谷干城(たに・たてき)が、戦死した同郷の軍人・吉松速之助(よしまつ・はやのすけ)を追悼した漢詩(写真)です。七言絶句なので、「野花冷水為君酬/想像當時涙自流/欲喚忠魂談往事/風吹原草不堪秋」の改行で分けることができます。(現代語訳は後述)

 谷は、天保8(1837)年、現在の高知県四万十町に生まれました。文久元(1861)年、土佐勤王党リーダー・武市半平太に出会ったことで尊王攘夷思想に傾倒しますが、やがて坂本龍馬らとの交流の中で倒幕派になります。慶応3(1867)年には西郷隆盛、中岡慎太郎らとともに「薩土密約」に参加、武力討幕を計画しました。龍馬暗殺事件の直後に現場に駆け付けたことや戊辰戦争で捕縛した新選組局長・近藤勇を処刑させたことでも知られています。
 明治4(1871)年、陸軍大佐となった谷は、その2年後に熊本鎮台司令長官に就任しました。同7年には、士族反乱である「佐賀の乱」鎮定に出撃し、台湾出兵にも従軍しています。同9年、熊本鎮台司令長官に再任されると、翌年勃発した「西南戦争」で熊本城の防衛に当たりました。そして、西郷軍相手に奮戦し、同城を守ったのです。(写真は熊本城にある谷の銅像)
学芸員エッセイ 「谷干城と吉松速之助」
 西南戦争は政府軍の勝利に終わり、生還した谷は名将と讃えられました。しかし、彼の友人であった吉松速之助は、この戦いで帰らぬ人となったのです。
 吉松は、弘化2(1845)年、高知城下の上町に生まれました。早くより文武に優れ、文久2(1862)年、藩主に従って上洛、国事に奔走します。慶応4(1868)年に戊辰戦争が始まると、藩兵小隊長として伏見の防衛に当たりました。吉松らのこの判断が、その後の土佐藩における官軍としての方向性を決定づけたといわれています。
 吉松のエピソードで最も有名なものは、この戊辰戦争の局面の一つ「会津戦争」において、同藩重役・神保修理(しゅり)の妻・雪子の自決に立ち会った話です。戦いの中、雪子は会津を守るため官軍を迎え撃ちましたが、やがて大垣藩の軍隊に捕縛されてしまいます。それを見た吉松は、兵士たちに雪子の助命を訴えたのですが、受け入れられませんでした。自決を望む雪子に対して吉松は短刀を渡し、その最期を見送ったと伝えられています。この場面は、大河ドラマ「八重の桜」でも描かれていました。
 吉松は、維新後に近衛兵の陸軍大尉となり、明治9(1876)年には少佐へと昇進しました。しかし、前述の通り、翌年の西南戦争に出撃し、33歳の若い命を散らしたのです。この漢詩を現代語訳すると、「野の花と冷たい水を君のために贈る。当時を思うと涙がひとりでに流れる。忠魂を呼び寄せて過去のことを語ろうとすると、風が野原の草を吹いて、秋のあわれに耐えられない」となるでしょうか。死んだ友人を想う谷の心情が、荒涼とした秋の風景とともに表現されており、鑑賞者にもその切なさが伝わってくるようです。豪傑な軍人としてのイメージが強い谷ですが、だからこそ戦争の空しさ、悲しさを感じていたのかもしれません。

 企画展ではこの他にも多彩な作品を展示します。「私の故郷にこんなすごい人物がいたのか」「この人物があの歴史的事件に関わっていたのか」といった具合に、一人一人の思いで自由に鑑賞していただければ幸いです。ぜひ、お越しくださいませ。


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