学芸員エッセイ その26「憲法起草と金子堅太郎」

憲法起草と金子堅太郎

 龍馬の生まれたまち記念館では、現在、企画展「近代日本の遺墨展」を開催しています。幕末から昭和にかけての歴史上の人物が遺した書を前後期に分けて展示するという当館初めての試みで、先日、前期(7月27日~8月11日)が終了しました。総理大臣経験者をはじめ、政治家や軍人、文化人など、多彩な人物の作品を展示しており、来館者の皆様からも多くの反響をいただいております。
 同企画展の後期は、8月13日から8月26日までです。明治から昭和にかけての政治家で「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄、五・一五事件で暗殺された犬養毅、明治・大正期を代表する文豪の森鴎外など、前期同様に貴重な史料の数々が並びます。皆様、ぜひともお越しくださいませ。

 さて、今回のエッセイでは、この後期の間に展示している史料を一つご紹介します。それは、金子堅太郎(号:渓水)の七言絶句が書かれた掛軸で、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草に関する内容のものです。
学芸員エッセイ 「憲法起草と金子堅太郎」

 原文は「曽是憲章起草源四人参画二人存荒/發探得埋苔井始認藤公偉業痕/横須賀鎮守府長官招請赴夏嶋検定伊藤公舊跡 渓水堅」と書かれています(「/」は改行部分)。これは、夏島(現・神奈川県)にある初代内閣総理大臣・伊藤博文の別荘で、伊藤らとともに大日本帝国憲法草稿の作製に関わった金子が、その後同地を訪れた時の思いを表現したものです。現代語訳すると「憲法の起草に当たった四人のうち、伊藤と井上毅はすでに故人となり、私と伊東巳代治の二人だけが生き残っている。夏の暑さの中で喉を潤した井戸も今は苔むしていた。ここで改めて伊藤の偉業を確認した」となります。

 金子は、嘉永6(1853)年2月4日、福岡藩に生まれました。その後、藩校で学び、明治4(1871)年に渡米し、ハーバード大学で法律を学んでいます(ここでは、後にアメリカ大統領となるセオドア・ルーズベルトと同期生でした)。帰国後は伊藤を助け、首相秘書官等を務めながら、明治20(1887)年の6月から憲法草案の起草に参画しました。この時に夏島に集まって論議した主要メンバーが、上記の4人だったのです。
 その2年後、大日本帝国憲法は公布され、日本はついに立憲国家としての仲間入りを果たしました。同憲法は、天皇の権限が強く議会の力が弱いなど、現憲法下から見れば弱点も多々ありました。しかし、日本が本当の意味で「近代化」の一歩を踏み出した歴史的瞬間でもあったのです。
学芸員エッセイ 「憲法起草と金子堅太郎」

 なお、本企画展では、歴史研究家で画家の谷是(たに・ただし)さんが、各人物の似顔絵を描いてくださいました。こちらもたいへん好評で、親しみやすさがあります。優しいタッチで描かれる歴史上人物たちの姿も、ぜひご覧くださいませ。


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