学芸員エッセイ その28「京都歴史探訪 その3」

京都歴史探訪 その3

 筆者は先日、京都国立博物館で行われている展覧会の見学及びキャンパスプラザ京都で開催された薩長同盟シンポジウムに参加するため、京都を訪れました。その過程において、様々な史跡も見てきたので併せてご紹介します。

学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その3」
 現在、京都国立博物館では特別展覧会「没後150年 坂本龍馬」が開かれています。筆者も前々から楽しみにしていた催しで、このたび念願叶って見に行くことが出来ました。龍馬に関する貴重な資料が一堂に展示されるたいへん大規模なもので、なかなか見ることのできない直筆の手紙や遺品などがずらりと並び、まさに圧巻のひと言でした。その中で、とくに多くの来館者が注目していたと感じたのは、今回初公開となる「現存するものでは最古となる龍馬の手紙」でした。
 その手紙は、安政3(1856)年9月29日付のものです。内容自体は記録で残されていたのですが、原物の所在は近年判明したとのことです。その内容は、龍馬が二度目の剣術修行で江戸を訪れた際、高知の商人・相良屋に対して無事に到着したことを知らせ、餞別のお礼を述べるものでした。なお、この手紙は単体で現存していたわけではなく、維新志士たちの書簡が収められた法帖の中にあったものでした。当時の龍馬は20代前半で、その後、自分自身が幕末動乱の真っ只中に飛び込んでいくことなど、思いもよらなかったことでしょう。
 龍馬の遺品のコーナーでは、暗殺時に龍馬が持っていた刀「陸奥守吉行」や事件現場にあった掛軸と屏風、そして京都河原町の醤油商・井口家に伝わっていた龍馬の紋服が展示されていました。掛軸と屏風は、複製を高知県立坂本龍馬記念館で見ることができますが、本物にお目にかかれることはめったにありません。両者には暗殺時に飛び散った龍馬のものと思われる血液が付着しており、事件の生々しさを今に伝えていました。また、紋服は坂本家の家紋入りであり、龍馬の体格が大柄であったことを知ることができます。
 同展覧会は、11月27日(日)まで開催中です。龍馬の資料がこれほど並ぶ機会は、おそらく、今後なかなかないと思われます。ぜひともご来場されることをお勧めいたします。

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 その翌朝、筆者は京都御所まで足を運びました。天皇が江戸城に住むようになったのは明治元(1686)年からで、それまではここが「皇居」だったことはよく知られていますが、御所内の広い敷地には多くの公家たちも住んでおり、一つの町が形成されていたようです。しかし、明治2年の東京遷都によって公家の町は廃れ、やがて公園として整備されるようになりました。
 その御所の中に、幕末動乱における大事件「禁門(蛤御門)の変」の舞台となった蛤御門があります。元治元(1864)年7月、前年の政変で京都から追放された長州勢力は、復権をかけて京都に兵を進めました。この時、この蛤御門で長州軍を迎え撃ったのが、薩摩・会津・桑名藩でした。長州は敗走し、久坂玄瑞など数多くの藩士も戦死、そして御所に発砲したことで「朝敵」の汚名も着せられて、幕府から討伐される立場となってしまったのです。
学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その3」

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 門には、その時の銃弾の痕と思われる穴が多数残されており、激しい戦闘行為があったことを物語っています。また、この戦いで起こった火災は、京都の大部分を焼き、多くの民衆を苦しめることとなってしまいました。幕末動乱は、藩や武士の単位で語られがちですが、彼らが起こした戦闘行為の中で多くの無辜の民が泣いたことも忘れてはならないことだと思います。

学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その3」

 次に、多くの幕末ファンが訪れることで知られる霊山歴史館に行ってきました。ここでは現在、秋の特別展「龍馬 未来への旅立ち」が行われています。龍馬をはじめ幕末の人物に関する遺品が多数展示されており、こちらも国立博物館同様に見応えのある内容でした。
 展示資料は、土方歳三所要の刀、木戸孝允が薩長同盟成立への喜びを表現した都都逸(どどいつ)、西郷隆盛が自刃した際に介錯をした脇差、近藤勇の鎖帷子など、たいへん多彩なラインナップです。それらは、幕末動乱がドラマや小説の中の出来事ではなく、実際にあった事であることを私たちに強く語っているかのようでした。
 同特別展は、2期に分かれて開催され、第1期は10月30日(日)まで、第2期は11月1日(火)から12月25日(日)までとなっております。ぜひ、京都を訪れた際にはお立ち寄りすることをお勧めいたします。


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