学芸員エッセイ その29「上町の偉人・河野敏鎌」

上町の偉人・河野敏鎌

 龍馬の生まれたまち記念館では、来年の1月から、企画展「偉人を探そう!上町・小高坂の群像展vol.2」を開催します。この企画展は、昨年開催した「偉人がいっぱい!上町・小高坂の群像展」の第二弾で、新たに偉人を紹介するとともに、前回紹介した人物のさらなる研究成果の発表も行います。
学芸員エッセイ「上町の偉人・河野敏鎌」

 今回のエッセイでは、その偉人の一人である河野敏鎌(こうの・とがま)を紹介します。

 河野敏鎌は、弘化元(1844)年10月20日、高知城下の北奉公人町(現・高知市上町)に生まれました。現在、その生誕の地を示す石碑は、高知市立第四小学校の前に建っています。ちなみに、ここは史跡の碑が三つも並んで建っている珍しい場所です。(真ん中が該当の碑。後の二つは、民権結社・嶽洋社跡と婦人参政権発祥地の記念碑)
学芸員エッセイ「上町の偉人・河野敏鎌」
 ペリー来航に端を発した幕末の動乱が始まると、各地で尊王攘夷思想が湧き起こりました。敏鎌もこれに影響を受け、文久元(1861)年、武市半平太率いる土佐勤王党に加盟します。同党の目的は尊王攘夷思想のもとで新しい政治をつくることでしたが、土佐藩には半平太とは考えが異なる重役・吉田東洋が強い力を持っていました。このことが、一藩勤王(藩の意見を勤王で一つにまとめ上げること)を目指す半平太にとって大きな壁となっていたのです。
 そうした現状を打破しなければ事は前に進まないと判断した半平太は、同年3月、刺客を放って東洋を暗殺させました。その際に、東洋の首を刺客から受け取り、雁切河原(現・高知市の紅葉橋周辺)にさらす役を負ったのが、敏鎌であったと伝わっています。

 東洋を排除した半平太は土佐藩内で力を持ち、京都で実権を握ります。これに合わせて敏鎌も上京しますが、勤王党の栄光は長くは続きませんでした。文久3(1863)年に起きた「八月十八日の政変」により、尊王攘夷派が京都から追い出されたことで、勤王党は土佐藩から弾圧されることとなったのです。
 この弾圧事件で、多くの党員が投獄、処刑され、敏鎌にも激しい拷問の末、永牢処分が下されました。やがて、慶応元(1865)年閏五月、土佐藩の命令により半平太が切腹し、土佐勤王党は事実上壊滅しました。

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 その後、明治新政府が成立したことで、敏鎌は罪を許され、釈放されました。そして、新政府入りを果たした土佐藩重役・後藤象二郎により、佐賀藩の江藤新平に紹介され、明治2(1869)年、司法省に入ることになります。そしてその3年後、江藤とともにヨーロッパの視察に出かけた敏鎌は、各国の法律を学んで帰国しました。(写真は敏鎌の肖像写真。当館蔵の『幕末明治文化変遷史』より)
 しかし、明治6年、新政府内での政争に敗北したメンバー(西郷隆盛、板垣退助など)が、いっせいに辞職するという事件が起こります。「明治六年の政変」です。この政変で新政府から降りた人物には、敏鎌が世話になった江藤も含まれていました。そして、この政変で新政府を下野したメンバーが、後に士族の反乱と自由民権運動の中心人物となっていくのです。
 この頃、明治政府の政策によって多くの士族が没落し、彼らは各地で反乱を起こしていました。そうした情勢の中、明治7(1874)年、九州で「佐賀の乱」が勃発します。これは新政府に不満を持つ士族たちが起こしたもので、後の西南戦争(1877年)に先駆けた大規模な武力蜂起でした。そして、そのリーダーに担ぎ出されていたのが、敏鎌の恩人・江藤だったのです。
 新政府はこれを軍隊で鎮圧し、江藤は逃亡の末、捕まりました。そして、この時に臨時裁判長として江藤を裁く立場となったのが敏鎌でした。皮肉にも、ともに近代日本の法整備に協力し合った敏鎌と江藤は、法によって裁く立場と裁かれる立場になってしまったのです。法廷に私情を持ち込むことが許されない敏鎌は、江藤に死刑の判決を下しました。

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 その後、明治13(1880)年に文部卿、明治14年には農商務卿に選ばれた敏鎌でしたが、またしても政変に遭遇することとなります。国会の早期開設を訴える大隈重信が、伊藤博文らの手によって新政府から追放される「明治十四年の政変」です(憲法制定を巡る伊藤との意見の相違も原因でした)。この事件を受けて、敏鎌も政府を降りることとなりました。(写真は大隈の肖像写真。当館蔵の『幕末明治文化変遷史』より)
 そして明治15(1882)年、大隈とともに立憲改進党をつくり、敏鎌はその副総理となります。これは、板垣退助の自由党と並んで日本に出来た初期の政党で、知識人や実業家に強い支持基盤がありました。
 こうした政党の登場は、国民の声が届く政治をつくるための大きな一歩だったのですが、政府の取り締まりもあって党の運営はうまくいかず、自由党とも激しく対立します。やがて敏鎌は、大隈とともに結成からわずか2年で党をやめてしまいました。

 その後、再び新政府に入り、農商務、司法、内務、文部の各大臣を歴任します。そして、明治26(1893)年11月に新政府を退職し、その2年後の4月24日に激動の生涯に幕を降ろしたのでした。

 
 幕末から明治へと時代が大きく変わる中で様々な重要人物と関わり、歴史の激流を目撃した敏鎌は、まさに龍馬に負けない波乱の人生を送りました。「〇〇の政変」と呼ばれる事件に3度も遭遇した人物も、なかなか珍しいのではないでしょうか。龍馬の生まれた上町からこうした人物が生まれたことを学ぶことは、日本が近代化していく過程を知ることにもつながり、たいへん有意義ではないかと思います。

 企画展「偉人を探そう!上町・小高坂の群像展vol.2」は、来年1月7日から2月5日です。ぜひ、お越しくださいませ。


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