学芸員エッセイ その33「上町と小高坂 人物伝ガイドブック」

上町と小高坂 人物伝ガイドブック

 龍馬の生まれたまち記念館では、3月4日から始まった「志国高知 幕末維新博」に合わせ、このたび、一つの冊子を発行しました。当館周辺にゆかりのある先人達を紹介した『上町(かみまち)と小高坂(こだかさ)の人物伝ガイドブック』です。学芸員エッセイ「上町と小高坂 人物伝ガイドブック」
 同著の目的は、高知市上町とそれに隣接する小高坂地区の歴史を記録、紹介し、次世代に継承していくことです。幕末から現代にかけて、この地域からは龍馬以外にも数多くの人々が輩出されました。そのラインナップは、志士、文化人、実業家など実に多彩で、まるで激動する日本近現代史の一部を体現しているかのようです。製作にあたりましてご協力をいただきましたすべての皆様に厚く御礼を申し上げます。

 執筆に当たっての人物選定は、『高知県人名事典』及び昭和初期に高知地理学会から発行された地図を参考にしました。その中から31人をピックアップし、さらに坂本家墓所や女性参政権のことも解説しています。紹介した人物の知名度には大小がありますが、いずれも土佐史や日本史に事績を残しました。バラエティあふれる先人達から、地域の歴史及び日本の近現代史に関心を持っていただければ幸いです。
 今回のエッセイでは、同著で紹介した人物の中で、自由民権運動家たちを紹介します。
学芸員エッセイ「上町と小高坂 人物伝ガイドブック」
 「幕末維新博」では、動乱の幕末期だけでなく、明治以後に自由民権運動で活躍した人々も取り上げて、歴史をテーマとした観光キャンペーンを図っています。同運動で最も有名な人物といえば、板垣退助でしょう(写真は高知城に建つ板垣像)。板垣は、幕末期においては土佐藩の討幕派として戊辰戦争に従軍し、維新後には新政府に入りました。しかし、明治6(1873)年に起こった政変によって下野。その後、薩摩と長州の出身者で占められた政府に対して危機感を覚え、国民の声が届く政治をつくるために言論活動を始めるのです。運動は、燎原の火の如く全国に広がり、多くの人々に「一般民衆であっても政治に参加できる」「武力ではなく言論で戦おう」という認識を広げました。
 民権家たちは、各地に政治結社を設立し、そこで勉強しながら運動を進めていました。その代表的な機関に「立志社」があります。これは、政変後に帰郷した板垣が、明治維新で没落した士族の救済とその子弟の教育を目的とした機関作りを進めていた片岡健吉らと協議し、政治思想を折り込んで発足させた組織でした。そして、「立志学舎」という教育機関も作り、そこで学んだ人々がやがて自由民権運動の担い手となっていくのです。(写真は高知市の中央公園に建つ立志社跡)
学芸員エッセイ「上町と小高坂 人物伝ガイドブック」
 前置きが長くなりましたが、この立志社で副社長を務めた人物が上町にいました。その名も島地正存(しまじ・まさなり)といいます。弘化2(1845)年、上町の水通町(すいどうちょう)に生まれた島地は、龍馬も学んだ日根野道場で剣術を習い、文久元(1861)年に土佐勤王党員となります。翌年、藩の権力者・山内容堂の警護部隊として江戸へ赴き、諸藩の志士と交流しました。
 慶応4(1868)年、戊辰戦争が始まるとこれに従軍。武功を挙げることで上士格に昇進し、明治4(1871)年には御親兵(天皇を守る軍隊)に編入されました。しかし、前述の政変を受けて同7年に下野し、その後は土佐で自由民権運動の担い手として活躍することとなりました。
 そして、同10年8月、立志社の副社長に就任すると、同13年に同社の東京在留員として派遣され、国会開設運動に尽力します。さらに、その年の12月には自由党結成の盟約に参加し(正式な発足は翌年)、同14年2月、立志社副社長に再選されました。さらにその翌年、土佐で海南自由党を結成し、常備委員に就任しました。
 その後は、県令(現在の知事)からの協力依頼で各地の開発事業にも携わり、県の職員となります。同19(1886)年からは安芸郡で森林看守を務めましたが、監視中に転落死したと記録されています。ただ、その没年はわかっていませんので、何かご存じの方がおりましたら、ご教示いただければ幸いです。

 次に紹介する民権家は、横山又吉(よこやま・またきち)です。高知市立高知商業高校の初代校長としても有名なので、知っている方も多いかもしれません。また、「横山黄木(黄樹)」の号で、書家としても活躍しました(ちなみに、「黄木」の由来は、横山の「横」の字を分解したものだそうです)。晩年は上町の築屋敷(つきやしき)に住み、多くの漢詩文を残しています。
 安政2(1855)年、現在の高知市南元町に生まれた横山は、藩校「致道館」に学んだ後、明治7(1874)年に上京、漢文学を修めました。帰郷後は立志学舎に入り、民権家として活動していくようになります。明治13年、高知新聞社に入った横山は、民権運動の理論的指導者・植木枝盛らとともに政府批判の論陣を展開しました。
 同20年には三大事件建白運動(①言論の自由、②地租改正、③不平等条約の改正を求める運動)のため上京しますが、保安条例違反で逮捕・投獄されてしまいます。釈放後は帰郷し、高知市議会議員に当選、同市の学務委員長を務めました。
 同31(1898)年、現在の高知市内に簡易商業学校を創立して校長となり、以後は教育者の道を歩みます。同校は、翌年に高知商業学校と改められ、現在の高知商業高校の前身となっています。横山は名校長として知られ、ここで多くの若者を育てました。現在、同校の敷地内には横山の像があり、勉学に励む後進たちを見つめています。
学芸員エッセイ「上町と小高坂 人物伝ガイドブック」
 島地や横山らが関わった自由民権運動は、やがて議会政治や普通選挙などの現在では当たり前となっている民主政治の歴史へとつながっていきます。国民が参政権を享受できる現在の世の中は、多くの先人たちが汗水流して勝ち取ってきたものということを、私たちは主権者として忘れてはいけないでしょう。


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