学芸員エッセイ その38「西郷隆盛と土佐」

西郷隆盛と土佐

 2018年は、明治維新から150年の節目です。全国では今、これに合わせた観光キャンペーンや広報活動が行われ、それらを機に今一度、幕末維新史を、そして日本の近代史を見つめ直そうという機運が高まりつつあるように感じます。高知県でも、昨年から開催中の「志国高知 幕末維新博」が、ますますの盛り上がりを見せることと思われ、筆者としても身が引き締まる思いです。
 そして、この記念すべき節目に合わせた大河ドラマ「西郷どん」が、去る1月7日から始まりました。この作品に「早くも釘づけになっている」という方も、多いのではないでしょうか。維新の功労者・西郷隆盛が歩んだ激動の人生と薩摩藩から見る幕末維新史が、これからどのように描かれるのか、筆者もたいへん楽しみにしています。また、「龍馬はいつ出るのか」「誰がキャスティングされるのか」ということも、今から非常に気になります。

 さて、日本の歴史上あまりに有名な西郷隆盛ですが、高知県ともゆかりのある人物ということをご存知でしょうか。本エッセイでは、そのことを少し紹介します。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と土佐」
 西郷隆盛は、文政10(1827)年12月7日、鹿児島にて生まれました。家は下級武士でしたが、やがてその才覚を藩主・島津斉彬に認められ、藩士となります。斉彬亡き後は、藩政から遠ざけられて苦労した時期もありましたが、元治元(1864)年の「禁門の変」を機に復帰。以後、藩の幹部として長州との連合工作に邁進し、倒幕の推進役となりました。そして、新政府樹立後には多くの改革を実行し、近代日本の骨格を作ります。しかし、明治6(1873)年の政変によって新政府を下野。その4年後、明治政府に不満を持つ士族たちの反乱「西南戦争」のリーダーに担ぎ出され、これに敗北後、自害という形で波乱に満ちた生涯を終えました。

 西郷が土佐に来たのは、上記49年の人生の中で2回のみです。しかし、それはどちらも幕末維新史における重要な局面でした。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と土佐」
 1回目の来訪は、慶応3(1867)年2月です。この頃の薩摩藩は、前年に締結した薩長同盟に則り、長州の名誉回復を図るため、朝廷への工作活動を進めていました。同時に、神戸開港問題に関しての幕府の活動に警戒を示していた頃でもありました。前年12月に将軍となった徳川慶喜が、外交分野や軍制改革に力を注ぎ、幕政の権威を復活させようとしていたのです。慶喜は、孝明天皇の反対で頓挫していた神戸の開港を断行することにより、外国に対して「日本の主権は幕府にある」とのアピールを図ったと考えられています。
 薩摩藩は、これに対抗するためにも、雄藩勢力を集めた会議を京都で開くこととなりました。薩摩、越前、土佐、宇和島のトップクラスが話し合う、「四侯会議」です。西郷は、この会議に土佐の前藩主・山内容堂を呼ぶために、薩摩藩の最高権力者・島津久光の命令で高知に派遣されたのです。この時の会談は、高知城下にあった容堂の別邸で行われ、現在、その場所はホテルの敷地内となっています。
 なお、この四侯会議ですが、それぞれの藩権力者の足並みはそろわず、最終的には空中分解となりました。これにより、慶喜は朝廷から神戸開港の勅許を得ることに成功。幕府の「巻き返し」に危機感を持った薩摩藩は、その打倒へと本格的に討幕へと舵を切ることとなります。

学芸員エッセイ「西郷隆盛と土佐」
 次に西郷が高知に来たのは、維新後の明治4(1871)年1月のことです。高知市南九反田の公園内に立つ「開成館跡 西郷木戸板垣三傑会合之地」の碑が、それを示しています。
 「開成館」とは、土佐藩が慶応2年、殖産興業・富国強兵を目的として設立した機関で、ここでは新時代に向けた様々な事業が行われていました。大政奉還に貢献した後藤象二郎と坂本龍馬、後に三菱財閥を創設する岩崎弥太郎も、この組織があったからこそ、大きな仕事を成し遂げられたのです。同館は、明治3年に「寅賓館(いんひんかん=外来客を接待する館という意味)」と改名され、外交の窓口としての役割を果たしました。
 この頃、薩長出身者が中心となった新政府は、中央集権国家を作るための改革を全国レベルで着手していました。明治2年6月の版籍奉還(各藩に土地と人民の支配権を天皇に返させる)から同4年7月の廃藩置県(藩を廃して県を置き、中央から派遣された県令が人民を治める)に至る政策の断行は、まさにそれを具体化するもので、この流れにより、幕藩体制は名実ともに終わりを迎えたのです。
 そうした重要な過程の一環で、西郷は高知の地を再び踏みました。上記の件を土佐藩代表者と話し合うための訪問です。この時、薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允も西郷に同行し、薩長土3藩の合同で朝廷を守る軍隊を作る案も提示します。土佐藩からは、幕末維新期の土佐藩幹部として歴史の局面で重きを成した板垣退助と福岡孝弟が応対しました。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と土佐」
 この来訪時に、西郷が宿泊したのは、現在の高知市菜園場(さえんば)町にあった木屋という豪商でした。同地には現在、木屋橋という橋が架かっており、その名をとどめています(木屋橋自体は江戸時代からありましたが、現在のものは昭和34年の竣工です)。実は、その時の西郷にまつわる資料群が、木屋の子孫宅に伝わっており、現在は同家から高知県立歴史民俗資料館に寄贈(一部寄託)されています。
 その中で、筆者が最も興味深いと感じるのが、木屋の主人・竹村與左右(たけむら・よそう)が書いた接客時の記録です。この文書では、「酒に酔った西郷に年齢を聞いてみたところ、43歳と答えた」「木屋を去る時、丁寧に御礼を述べたあと、妻への礼金もくれた」等のことが記されており、西郷の気さくな人格の一端を知ることができます。さらに同史料には、西郷の身体的特徴も記録されており、「背丈は5尺8、9寸(約176~179cm)」、「腕に元結の揉(もとゆいのくり=髷を結う紐を輪にしたもの。長さは14、5cmほど)を通したところ、付け根まで入らなかった」、「目方は26、7貫(約97~101kg)ほどもあるように見受けられた」、「耳は餅を伸ばしたように見えた」と書かれています。耳に関する記述の部分には、そのイラストまで描かれており、写真が現存しない西郷の風貌の一部を伺うことが出来る貴重な史料といえるでしょう。
 なお、上記資料群の中には、この訪問時に木屋が西郷のために用意した下駄も残されています。「高知新聞」平成20(2008)年4月14日付の記事によると、「長さは25.5cm、幅8.5cm、高さ9.5cm、表に畳地を張った上等の品」だそうです。また、同記事には、「西郷のために特注した大きな風呂桶なども、30年ほど前まで残っていたそうだ」と書かれています。先日、この件で子孫の方にお話をうかがう機会をいただいたのですが、それによると「昭和48(1973)年に引っ越しをした際、処分しました」とのことでした。

 今年、大河ドラマを中心とした西郷ブームの影響力は、おそらく高知にも波及することでしょう。その経済効果に期待するとともに、これを機に、一次史料に基づく幕末維新史の研究がさらに発展することも願いたいものです。


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