学芸員エッセイ その41「西郷隆盛と鹿児島」

西郷隆盛と鹿児島

 現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」に、いよいよ7月15日(日)から、坂本龍馬が出てきました。初登場回の出番は少なめでしたが、小栗旬さん演じる龍馬が、これからどんな活躍を見せてくれるのか、期待は膨らみます。この作品での龍馬は、ハリウッド映画の人気シリーズに出てくる船長をイメージしているらしく、まさに「海の男」に相応しい設定です。小栗さんは、西郷隆盛役の鈴木亮平さんとも親交が深いとのことなので、それが「西郷と龍馬の絆」という演出にも、一役買うのではないでしょうか。

 本日のエッセイでは、今年3月、筆者が1泊2日で鹿児島を訪れた際、西郷関連の史跡を見聞した内容についてお伝えいたします。両日のうち、2日目はあいにくの雨でしたが、タクシーの運転手がたいへん親切で、各地の史跡を解説付きで案内してくださいました。この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。

学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 まず1日目、JR鹿児島中央駅に降り立った筆者が最初に訪ねたのは、同駅前の「若き薩摩の群像」です。これは、文久3(1863)年に薩摩からイギリスに派遣された留学生たち(通称「薩摩スチューデント」)をモデルにしており、昭和57(1982)年3月に建立されました。NHK連続テレビ小説「あさが来た」で人気者になった五代友厚(ごだい・ともあつ)をはじめ、明治以降、政界や実業界で活躍した若き日の薩摩藩士17名で構成される構図は、圧巻のひと言で、まさに近代日本の黎明が凝縮されているかのようでした。
 なお、この群像は17名ですが、「薩摩スチューデント」の人数は19名です。この差し引き2名の中には、土佐出身の高見弥市(大石団蔵)もいるのですが、薩摩出身ではないからか、この群像には加えられていません。高見は、かつて龍馬と同じ土佐勤王党のメンバーで、同党と敵対する土佐藩重役・吉田東洋を暗殺したメンバーの一人でもありました。その後、脱藩した高見は薩摩に亡命し、同藩の洋学教育機関に入ります。そして、留学先のイギリスで数学や測量学を学び、維新後は、数学教師となるという波瀾の人生を送りました。
 インターネットで調べたところによると、この群像に、外された高見と通訳の堀孝之(長崎出身)を加えようという運動があるそうです。高見は、西郷と龍馬同様に薩摩と土佐の関連を示す人物でもあるので、ぜひ実現させていただきたいものです。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 次に訪ねたのは、薩摩藩の若き家老・小松帯刀の像です。小松は、薩摩藩においては、最高権力者・島津久光に次ぐ最高決定権保持者であり、まさに同藩の大幹部でした。勝海舟の免職によって行き場を失った龍馬たちを薩摩に迎えたのも小松であり、薩長連合プロジェクトにおいて、長州藩が武器をイギリス商人から購入する際、薩摩の名義貸しを決定した功労者でもあります。
 しかし、その功績に反して、平成20(2008)年に大河ドラマ「篤姫」で瑛太さんが準主役を演じるまで、知名度はあまり高くありませんでした。以降、「篤姫」効果も手伝って、薩摩藩に関する研究がさらに進み、小松がいかに薩摩におけるキーパーソンであったかが、近年、明らかになってきています。今後のさらなる研究に期待したいものです。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 小松像のすぐ近くには、西郷隆盛の像がありました。西郷像と言えば、東京・上野に建つ浴衣姿ものが有名ですが、こちらは軍服を着ており、毅然とした佇まいです。この像は、西郷の没後50年を記念して制作されたもので、鹿児島市出身の彫刻家・安藤照(1892~1945)が8年の歳月をかけて昭和12(1937)年5月に完成させました。「西日本新聞」によると、この像のモデルは元・山形県議の石澤宏太郎(1890~1958)で、たまたま親戚と安藤のアトリエを訪れた際、「あなたほど西郷隆盛に似ている人はいない」とモデルを要請されたとのことです。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 その次に訪れたのは、鶴丸城(鹿児島城)跡です。ここはかつて、薩摩の藩主・島津家の居城であり、同藩の政務の中心でした。しかし、維新後、明治4(1871)年の廃藩置県をもってそれらの役割には幕が下ろされ、その後、火災によって城内の建物がいくつか焼失しました。そして、同10年に勃発した西南戦争では、西郷はこの城周辺に陣を敷き、新政府軍と最後の戦いに臨んだのです。城の石垣には、西南戦争時に浴びせられたと思われる銃弾・砲弾の痕がたくさん残っており、戦いの激しさを物語っていました。
 同城の敷地は、現在は史跡として整備されており、歴史資料センター黎明館や県立図書館、市立美術館などがあります。また、薩摩から徳川家に嫁いだ篤姫の銅像もあり、その凛とした姿を今に伝えています。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 鹿児島では、西郷とともに龍馬の人気もなかなかのもので、市街地の中心部には、龍馬と妻・お龍の像が建っています。龍馬は、慶応2(1866)年、お龍とともに鹿児島へ「新婚旅行」に来ており、霧島に登ったことでも知られています。この像は、その時の様子を描いたもので、歩道の中に等身大の像が建つというスタイルが、まるで通行人と一体化したような構図を生み出しており、たいへん印象に残りました。
 「西郷どん」では、お龍を水川あさみさんが演じますが、この新婚旅行のシーンは出てくるのでしょうか?「龍馬伝」でも描かれた印象深いシーンだけに、ぜひ期待したいものです。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 2日目の朝、最初に見に行ったのは、薩摩藩士で後に政治家・実業家となる五代友厚の像です。「若き薩摩の群像」にもありましたが、こちらは単体です。五代は、「薩摩スチューデント」としてイギリスの最先端技術を学んで帰国した後、藩の商業を司る職務に就き、活躍しました。維新後は、新政府で政治家となりますが、やがて実業界へと転身し、大阪発展の基礎を築きました。
 前述の通り、「あさが来た」で人気者となった五代ですが、「西郷どん」には出てくるのでしょうか?龍馬とは、慶応3(1867)年、土佐海援隊と紀州藩の船が衝突した「いろは丸事件」の際に、五代が両者の仲介に入るという形で接点があります。ぜひ、その場面も描いてほしいと思います。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 像の近くには、江戸で西郷と親交があった勤王派の僧・月照にまつわる史跡もありました。月照は、尊王攘夷思想を持つ活動家らと接点を持ち、13代将軍の継嗣問題で時の大老と異なる意見を持っていました。ゆえに、幕府が安政5(1858)年から始めた「安政の大獄(反対勢力への弾圧政策)」のターゲットとされ、西郷は、彼を助けるために薩摩まで連れてきたのです。
 しかし、藩は月照の受け入れを拒否したため、絶望した西郷は月照とともに入水自殺を図りました。月照はこれによって絶命しましたが、西郷は死ぬことができず、その後、藩命に背いたとして奄美大島に流罪となります。この碑は、月照が亡くなる直前まで住んでいた場所を示すものです。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 次に訪れた場所は、「西郷隆盛洞窟」です。ここは、明治10(1877)年9月、西南戦争の最終局面において、新政府軍に包囲された西郷が、5日間過ごした場所として知られています。この時、西郷率いる軍はわずか300人ほどしか残っておらず、対して新政府軍は4万人もの大軍勢で、もはや勝負は決したようなものでした。かつては薩摩藩や新政府で重役を務めた西郷が、洞窟で最晩年を過ごさなければならなかった心境は、いかほどのものだったのでしょうか。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 やがて、この洞窟を脱出した西郷は、仲間の桐野利秋、別府晋介らとともに下山しました。しかし、その途中、西郷の体を流れ弾が当たり、もはやこれまでという状況となります。西郷は、別府に介錯を頼んで自決し、激動の人生に終止符を打ちました。その地を示すものが、この「西郷翁終焉之地」の石碑です。西南戦争は「日本最後の内乱」と言われており、その終結とともに、時代は武力から言論へと移り変わっていきました。
学芸員エッセイ「西郷隆盛と鹿児島」
 最後に、西郷やその仲間たちが眠る「南洲墓地(なんしゅうぼち)」を参拝しました。ここには、西南戦争で「西郷軍」として没した人々が埋葬されており、前述の桐野や別府、幼少時から西郷を慕い続けた村田新八の墓もあります。筆者が訪れた際は、豪雨が降っていましたが、それは、自ら樹立させた新政府と戦い、「賊軍」として人生の幕を引いた西郷の、そして近代化の中で滅んでいった武士たちの悲哀を象徴するかのようでした。

 こうして史跡とともに、西郷や龍馬を見ると、彼らの生涯には、①幕府が衰退しつつあったペリー来航以前の幕末の胎動期、②開国から大政奉還に至る動乱期、そして③新政府樹立から西南戦争に至るまでの「新しい世の中になってからの動乱期」のすべてが、凝縮されているかのような印象を受けます(龍馬の人生に③はありませんが、彼の仲間たちがそれを経験しています)。それは、現代の私たちに、時代が大きく変わる時の人々の葛藤とともに、「革命、変革ですべて終わりではない。むしろ、そこからが新たな動乱の始まりなのである」ということも教えてくれるような気がしました。


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