学芸員エッセイ その42「戊辰150年」会津歴史探訪 その1

「戊辰150年」会津歴史探訪 その1

 筆者は先日、福島県会津若松市で開催された「会津新選組まつり」に合わせて、同市入りし、多くの史跡を巡ってきました。会津といえば、今から150年前に勃発した戊辰戦争において新政府軍に攻め込まれた地です。高知県や鹿児島県では、「明治維新150年」ですが、会津にとっては「戊辰150年」なのです。
 新選組まつりは午後からだったので、午前中は「猪苗代地方史研究会」の鈴木清孝さんの案内で、猪苗代地方の史跡を訪ねました。鈴木さんは、地元のガイドをされており、車で各地を案内してくださったうえ、豊富な資料もいただきました。この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。
 今回のエッセイでは、この猪苗代地方の史跡をいくつか紹介します。なお、「この表現は、会津の方に対して不適切ではないか」という箇所がありましたら修正致しますので、遠慮なくご指摘ください。
学芸員エッセイ「戊辰150年」会津歴史探訪 その1
 この日、最初に訪ねた場所は、「母成峠(ぼなりとうげ)古戦場」の碑です。ここは、戊辰戦争の局面「東北戦争」において、旧幕府軍と新政府軍が交戦した場所でした。会津の市街地が焼け野原になった「会津戦争」の前段階であり、碑に刻まれている通り、板垣退助や土方歳三らが参加していたことでも知られています。
 慶応4(1868)年1月、京都で勃発した戊辰戦争は、やがてその戦局を東へと拡大し、同年閏4月、新政府軍が白河口(現・福島県白河市)に攻め込んだことで、ここに東北戦争の火ぶたは切られました。幕末期に倒幕勢力を取り締まり、戊辰開戦後は旧幕府軍の主力となっていた会津藩を、新政府は敵とみなし、攻撃したのです。拡大する戦局に対し、会津を中心とした東北・上越の諸藩は、この翌月、奥羽越列藩同盟を結成しました。この同盟は、もともとは戦争回避を図るためのものでしたが、新政府軍との和平交渉は難航し、やがて敵を迎え撃つための軍事同盟へと性格を変えていきました。
 白河を突破した新政府軍は、7月には二本松藩(現・福島県二本松市)を攻撃し、拠点である霞ヶ城を落とします。次に新政府軍は、会津藩の鶴ヶ城(会津若松城)をターゲットとするのですが、攻め込むルートが問題となりました。この時、新政府軍の参謀であった伊地知正治(薩摩)は、母成峠から突入することを主張し、これが採用されます。新政府軍は、この他にも複数のルートを設定して、各部隊に攻撃させる作戦に出ました。
 8月20日、伊地知と土佐の板垣退助に率いられた主力部隊は、母成峠に軍を進め、翌日、ここで旧幕府軍と激突しました。旧幕府軍のメンバーには、幕臣だった大鳥圭介や新選組副長・土方歳三、会津藩士・田中源之進らがおり、ここで両軍は激戦を繰り広げたのです。旧幕府軍は、敵を会津市街地に入れまいと、必死で戦ったことでしょう。しかし、軍配は1日で新政府軍に上がり、22日には猪苗代城も落城しました。
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 今回、この猪苗代城の跡地も訪ねました。現在、城は残っていませんが、ここは通称「亀ヶ城」と呼ばれていました。これは、「鶴ヶ城」に対する呼称です。ちなみに、猪苗代出身の医者・野口英世は、幼少期にこの亀ヶ城跡でよく遊んでいました。野口が通っていた小学校がこの近くにあり、当時の子どもたちにとっての格好の遊び場であったそうです。
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 猪苗代城が落ちたこの日、もう一つの重要な戦いが繰り広げられました。それが「十六橋(じゅうろっきょう)の戦い」です。この十六橋は、猪苗代と会津若松をつなぐものであり、攻撃側・防御側の双方において重要な拠点でした。新政府軍は何としてもここを突破する必要があり、旧幕府軍としては絶対にここで食い止めなければなりません。会津藩の部隊は、この橋を先に破壊することで敵の進軍を阻止しようとしましたが、新政府軍の到着は予想以上に早く、ここで交戦となりました。
 十六橋の戦いに勝利した新政府軍は、その先にある「戸ノ口原」も突破し、鶴ヶ城をめざしました。この戸ノ口原では、有名な会津の少年部隊・白虎隊が、新政府軍と戦っています。白虎隊といえば、会津戦争の最中に飯盛山で集団自決したことで知られていますが、その前にここで戦っているのです。この「戸ノ口原の戦い」に敗れた白虎隊二番隊のうち20名が、藩に報告するため洞窟を通って鶴ヶ城を目指し、飯盛山にたどり着いたという流れです。
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 白虎隊をはじめ会津藩の軍隊は、この地で激しい塹壕戦を繰り広げました。すでに時代は、刀や弓矢ではなく銃撃戦が主流となっており、武器の性能とともに、地形を利用した戦略も、重要な要素でした。この周辺の山には、今も塹壕の跡と思われる盛り土などが残されており、戦争の生々しさを今に伝えています。
 この一帯の山は、菰土山(こもつちやま)と呼ばれ、ここに塹壕を構えた会津藩士たちは、写真の場所から下の敵を銃撃したのではないかと考えられます。ここの案内板によると、白虎隊はここで、新選組と交代するまで布陣していたそうです。なお、白虎隊と新選組は関係が深く、この戦いの2ヵ月前、会津の福良に滞在していた土方歳三は白虎隊士たちに会い、彼らと親交を深めたと伝わっています。
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 こうして、会津軍の防衛拠点を次々と陥落させた新政府軍は、会津の市街地へと侵入することとなりました。この話は、次回のエッセイで会津若松市内の史跡とともにご紹介します。本記事では、最後に、「戦争の地から人を生かす場所」となった十六橋について紹介しましょう。
 現在、十六橋には水門が築かれています。これは、明治12(1879)年から始まった国の一大プロジェクト「安積(あさか)疎水」建設に伴うものです。
 この事業は、水利が悪く、水不足に苦しめられてきた安積地域(現・福島県郡山市)に猪苗代湖からの水を引くというもので、その計画は、明治新政府の重役・大久保利通らの手によって進められました。大久保は、明治の世の到来によって失業した多くの士族たちをこの事業に従事させることで救済すると同時に、これを完成させることで殖産興業を進めようとしたのです。そして、この工事の出発点こそ、かつて新政府軍が攻め込んだ十六橋でした。
 この事業を始めるに当たって新政府が頼りにした人物が、オランダ人技術者ファン・ドールンでした。工事開始の1年前、現地を視察したファン・ドールンは、その報告書を政府に提出し、このデータを基に計画は進められたのです。そして、明治15年、総計約130kmにも及ぶ巨大な安積疎水は、完成しました。
学芸員エッセイ「戊辰150年」会津歴史探訪 その1
 現地には、ファン・ドールンを讃えて、その像が建てられています。この像を造った人物こそ、高知市の桂浜に立つ坂本龍馬像を建てた彫刻家・本山白雲(もとやま・はくうん)でした。何となく、左手を置く台などが龍馬像に似ている気がしますが、白雲が意識していたのかどうかは、分かりません。
 ちなみに、太平洋戦争が激しくなると、全国の銅像が金属供出のため撤収されたことは有名ですが、この像は、龍馬像とともにそれを免れています。龍馬像に関しては「海軍の祖だから」という理由でしたが、ファン・ドールン像は地元住民らが隠したことで、危機を回避できました。それだけ、この地域の人々にとって、恩人であったということでしょう。この像の右足の先には、コンクリートで補修した跡がありますが、これは隠すために台座から外した際の名残だそうです。

 次回のエッセイでは、新選組まつりはじめ、会津若松市関連の記事を紹介します。


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