学芸員エッセイ その43「戊辰150年」会津歴史探訪 その2

「戊辰150年」会津歴史探訪 その2

 「明治150年」の2018年が、もう終わりつつあります。昨年を「大政奉還150年」、今年を「明治維新150年」と位置付けた高知県の観光キャンペーン「志国高知 幕末維新博」も、来年1月で終焉を迎えます。この2年間、幕末明治期の歴史を多角的に学ぶ機会を県内外でたくさんいただき、たいへん有意義な時間を過ごすことができました。同博に尽力してくださったすべての皆様に、改めて御礼を申し上げます。
 しかし、高知や鹿児島では「維新150年」でも、戊辰戦争において新政府軍に攻め込まれた会津地方では、この1年を「戊辰150年」と位置付けています。筆者は今年の9月、「幕末明治史に関わる者として、本年中に会津に行きたい」という思いから、同地域を訪ねました。前回のエッセイでは、猪苗代地方の史跡を紹介しました。今回は、会津の中心地であり、戊辰戦争の激戦地であった会津若松市についてお届けします。

学芸員エッセイ「戊辰150年」会津歴史探訪 その2
 猪苗代駅から電車に乗り、会津若松市へと降り立つと、最初に、阿弥陀寺に向かいました。ここには、幕末の京都で治安維持に当たった警察組織・新選組の剣客として知られる斎藤一の墓があります。この場所では斎藤の法要を兼ねたイベント「新選組まつり」が、毎年開催されており、全国から多くの新選組ファン、幕末ファンが訪れます。この日も大盛況で、改めてその人気に驚きました。
 墓に「藤田家」と刻まれているのは、斎藤が明治になってから「藤田五郎」と改名したことが理由です。斎藤は、その剣術によって幕末の修羅場を何度もくぐり抜け、戊辰戦争でも会津藩とともに戦いました。明治の世になってからも警察や剣術指南役として活躍し、大正4(1915)年まで長生きしています。没した地は東京ですが、墓は斎藤の遺言により、会津に建てられました。戊辰戦争で戦死した仲間たちとともに眠りたかったという気持ちが、あったようです。
 斎藤の容姿に関しては、これまで、晩年の不鮮明な写真が唯一それを示すものといわれてきました。しかし、平成27(2015)年、斎藤が53歳の時に撮った鮮明な写真が発見され、話題となりました(発表はその翌年)。明治30(1897)年に家族とともに撮影したものであり、その凛とした佇まいは、かつて剣客として激動の時代を生きた姿を感じさせます。今回の旅行では、発見時に確認されたもう一つの写真(斎藤単独で撮影)を福島県立博物館で偶然見ることができ、たいへん感動を思えました。
学芸員エッセイ「戊辰150年」会津歴史探訪 その2
 次に訪れたのは、阿弥陀寺からほど近い「会津新選組記念館」です。ここには、新選組や会津藩、同藩とともに戦った奥羽越列藩同盟、攻め込んだ新政府軍側の資料が展示されており、そのボリュームには圧倒されます。
 この館の展示を見て印象的だったのは、洋式銃の多さです。会津戦争の頃、日本史における戦闘様式は刀や弓矢ではなく、西洋式の銃砲術が要となっていました。映画などのフィクション作品では、「銃で装備した新政府軍に刀で立ち向かう新選組」という描写がされることがあります。しかし、これは必ずしも正確ではなく、旧幕府軍もフランス式の軍制を採り入れるなどして、武器の面では決して新政府軍に負けていませんでした。新選組もまた例外ではなく、京都の屯所で銃砲術の訓練を実施していたという記録もあります。近世から近代へと時代が大きく変わろうとしていた頃、その原動力の一翼を担ったのは、こうした軍事面の「世代交代」だったのです。同館の展示を見て、その理解を改めて深められたような気がしました。
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 次に、会津若松市のシンボル・鶴ヶ城(若松城)に向かいました。ここは、会津戦争において籠城戦が行われた地であり、大河ドラマ「八重の桜」でも、その様子が描かれていました。現在、同城の天守内は博物館になっており、会津藩の歴史などを学ぶことができます。
 その中で印象に残ったのは、期間限定で設置されていた「VR幕末の会津若松」でした。VRとは「バーチャルリアリティー」のことで、コンピューターグラフィックスを駆使した仮想現実を楽しむことができる装置です。この城内のコンテンツでは、アニメ化された篠田儀三郎(白虎隊隊士)と土方歳三(新選組副長)の案内により、CGで描かれた会津城下の町並み等を探索することができ、そのクオリティの高さに驚嘆しました。
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 鶴ヶ城天守の東側には、籠城戦において銃を持って新政府軍を迎え撃った新島八重(当時・山本八重)の像もありました。大河ドラマ「八重の桜」の主人公です。八重は、会津藩の砲術指南役の娘で、若い頃から鉄砲に親しんでいました。会津戦争では、洋式のスペンサー銃を駆使して新政府軍と戦い、その勇猛さは「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれています。この像も、しっかりと銃を握っており、城を見つめる凛とした姿は、激動の時代に身を投じた若き日の八重の姿を今に伝えていました。
 像の近くには福島県立博物館があり、訪れた時には、秋の企画展「戊辰戦争150年」が開催されていました。同展では、会津戦争等に関わる膨大な資料が一堂に展示されており、まさに圧巻のひと言です。「錦旗」をはじめ、全国から貴重な資料を集め、新政府軍の視点だけでは分からない戊辰戦争の姿を浮き彫りにしているかのようでした。
 そして、前述の通り、同展で斎藤一の写真を見ることが出来たのは、最大の収穫でした。しかも、この企画展では前後期で入れ替える資料も複数あり、斎藤の写真は前期のみの展示、しかも訪れた日はその最終日だったのです。もともと、同博物館は自身の予定コースになかったので、たいへん幸運な出来事でした。
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 博物館を見学した後は、タクシーに乗り、善龍寺の「なよたけの碑」に行きました。この会津旅行で、いちばん行きたかった場所でもあります。この碑は、会津戦争で犠牲になった女性たちを追悼するものです。この戦いの最中、会津の女性たちはある者は武器を持って戦い、ある者は男たちの足手まといになるまいと自害しました。とりわけ、会津藩家老・西郷頼母の妻や娘たちが集団自決した出来事は、今も悲劇として伝わっています。「なよたけ」は、この時に頼母の妻・千重子が詠んだ辞世の句が由来です。
 碑の奥には、集団自決した21人の墓があり、花が手向けられていました。この墓のある善龍寺及び一帯の山は、他にも多くの会津藩士が埋葬されており、日本史における「明治維新」が、決して華々しい出来事だけではなかったことを訴えているかのようでした。
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 最後に、東明寺の西軍墓地を訪れました。ここは、「西軍」すなわち薩長土を中心とした新政府軍の犠牲者を弔う墓地です。会津にとって彼らは「加害者」でもあったわけですが、その一人一人にも人生があり、家族がおり、自分たちが信じた「正義」がありました。こうした人々を追悼する心も、会津には根付いています。
 写真は、土佐藩の人々の墓です。高知城歴史博物館の調査によると、ここには、49人の土佐藩兵の墓があるとのことです(図録『明治元年の日本と土佐 戊辰戦争それぞれの信義』より)。その中には、土佐勤王党だった安岡覚之助(かくのすけ)や三原兎弥太(とやた)の名も確認できます。安岡らの墓は、地元の土佐にもありますが、亡くなった地で眠る彼らの墓をこうしてきれいに整備し、維持してくださる会津の人々の心に、改めて敬意を持ちました。

 「明治150年」であり「戊辰150年」の2018年に会津の地を訪問できたことは、幕末史を研究する筆者にとって、大きな財産となりました。また、同地の人々との交流を通じて、会津地方のことが個人的にも大好きになりました。
 来年の夏には、当館で「龍馬と会津・新選組」をテーマに企画展を開催する予定です。来年も気を引き締めて参りますので、どうぞよろしくお願い致します。
学芸員エッセイ「戊辰150年」会津歴史探訪 その2
 


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