学芸員エッセイ その44「戊辰戦争と上町・小高坂」

戊辰戦争と上町・小高坂

 「明治150年」の2018年が終わり、新しい年が明けました。昨年12月に更新したエッセイでは、同年を「戊辰150年」と位置付けた会津旅行記をお届けいたしましたが、今年はその戊辰戦争終結から150年の節目です。
 現在、龍馬の生まれたまち記念館では企画展「上町・小高坂の群像展vol.3 歴史を刻んだ人々」を開催中です。当館が建つ上町とそれに隣接する小高坂地域ゆかりの人物を紹介する展示会の第3弾であり、今回も多くの方々の協力により、開催することができました。
 本エッセイでは、上町・小高坂の人物の中で、戊辰戦争に関わった軍人・軍医を3名紹介します。今回、この3名を調査するに当たりましては、ご子孫の皆様に心温かい協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 最初に紹介する人物は、野村維章(のむら・これあきら)です。龍馬とともに海援隊で活躍し、後に茨城県令(知事)や男爵となった人物です。写真(個人蔵)は、晩年に撮影されたものですが、戊辰戦争時の写真もいくつか残っており、今回、子孫の方からそれらの資料も教示いただきました。以下、「野村維章履歴」(国立公文書館アジア歴史資料センター蔵)をもとに、野村の生涯を紹介します。
 野村は、天保15(1844)年4月8日、小高坂の「森の下」(現・高知市越前町)に生まれました。万延元(1860)年、江戸に出て砲術を学び、文久2(1862)年、土佐藩の砲術指南役となりました。
学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 そして同年中、土佐藩の仕事で京都に赴いた際、龍馬と対面し、その影響を受けました。龍馬から海軍の重要性を説かれた野村は、元治元(1864)年3月、土佐を脱藩。その後、鹿児島に至り、翌年からは、長崎で龍馬らが所属する浪士集団(いわゆる「亀山社中」)に加入し、薩長連合プロジェクトの一翼を担いました。慶応2(1866)年10月には、同グループが購入した「大極丸」の船長に任命されています。
 慶応3(1867)年4月、土佐藩によって「海援隊」が結成されるとこれに参加。翌年1月、同隊による長崎奉行所の占拠に関わりました。そして、同年4月、長崎で海援隊の一部と長崎奉行所傘下の遊撃隊が合流し、新政府軍の一翼を担う「振遠隊」が結成されると、これに所属します。以後は、戊辰戦争に従軍することとなり、石田英吉(後の高知県知事)らとともに軍の幹部を務めました。
 維新後は、新政府に出仕し、茨城県令や司法官を歴任。明治23(1890)年8月、大阪控訴院の検事長に至りました。その2年後には東京控訴院の検事長となり、同33年、男爵の地位を得たのです。
 今回の企画展では、茨城県令時代の野村の名が残された資料を展示しています。筆者がネットオークションで入手したもので、警察署の建築費を寄付した猿島郡若林村(現・茨城県猿島郡)の人物に対する感謝状です。こちらもぜひ、ご覧いただければと思います。
学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 2人目は、戊辰戦争に軍医として出征した田口文良(たぐち・ぶんりょう)です。田口は、天保13(1842)年9月11日、上町の北奉公人町(きたほうこうにんまち)に生まれました。家業は医師で、その跡を継ぎ、文久元(1861)年に開業しましたが、動乱の時勢の中、同年中に政治結社・土佐勤王党に加盟します。翌年、前藩主・山内容堂の護衛名目で上京を図りますが、これは失敗しました。慶応3(1867)年、藩命で京都に赴き、その翌年1月から同地で戊辰戦争が勃発。以後、田口は土佐藩軍「迅衝隊」の軍医として東北方面まで同行することとなります。
 土佐藩軍の軍医を率いていたのは、中村(現・高知県四万十市)出身の医師・弘田親厚(ひろた・ちかあつ)でした。弘田は、従軍中の出来事を日記『東征道の記』『会津征討日記』に残しており、そこには、田口の名が複数回にわたって記録されています。今回は、田口に関する一次史料は展示しておりませんが、弘田の和歌が書かれた短冊を公開しています。これも筆者がネットオークションで購入したもので、短冊の裏には「播磨国姫路市 従六位 弘田親厚」と書かれています。弘田は、上記の日記の中で和歌を何度も記載しており、戦場の中でも風流人としての心を忘れない、その人となりを垣間見ることができます。あるいは、各地で悲惨な光景を目撃し、多くの兵士が殺傷される現状を目の当たりにする中、和歌で心を慰めていたのかもしれません。
学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 東北方面での戦争が終結すると、土佐藩軍は以後の戦いには参加せず、帰国へと至ります。田口もそれに従いって帰郷し、やがて藩から軍医としての功績が認められ、新御留守居組(上士格)に昇進しました。以後、医療に関わる役職を務め、高知県内の医学界の発展に尽力しました。上の写真は、明治期に撮影されたと思われますが、具体的な時期は不明です。子孫の方の話によると、「後世の人の手で、医学博士という文字が箱に記入されている。高知病院(五台山)時代かもしれない」とのことです。

 最後に紹介する人物は、吉松速之助(よしまつ・はやのすけ)です。明治になってからは、吉松秀枝(よしまつ・ほづえ)の名で知られています。以前、このエッセイでも紹介しましたが、今回、子孫の方のご協力により、新たな写真資料を確認することができました。本記事では、それをいくつか紹介します。
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 吉松は、弘化2(1845)年1月23日、上町の本丁筋(ほんちょうすじ)に生まれました。幕末の動乱が始まると、坂本龍馬の要請により脱藩したと伝わり、その後、京都を中心に各地で勤王を掲げて活動しました。上の写真は、脱藩前に弟子たちと撮った
記念撮影です。向かって右端が吉松ですが、その前方に弟子の一人が、刀を持って師を見上げるポーズを取っています。たいへんユニークな姿勢ですが、彼にどのような意図があるのかまでは分かりません。
 慶応4(1868)年1月、戊辰戦争の口火を切った「鳥羽・伏見の戦い」が勃発すると、吉松率いる部隊は、いち早く薩長軍に呼応して、伏見の防衛に当たりました。この行動が、土佐藩の官軍としての方向性を決定づけたといわれています。新政府軍は、その後東へと軍を進め、旧幕府勢力の代表格である会津藩を攻撃するに至りました。
 吉松は、この「会津戦争」にも従軍し、一つのエピソードを残しています。同年8月、吉松が陣営を訪ねた時、新政府軍の兵士に捕まった女性がいました。吉松は、助命を訴えますが、兵士たちはこれを拒否。女性は、吉松に対し、「せめて自害したいので、短刀を貸してほしい」と依頼します。吉松はこれを受け入れ、その会津武士道を全うさせたと伝わっています。
 この女性は、会津藩の重役・神保修理の妻・雪子だったことが分かったのは、吉松の死後のことでした。こうした悲劇も生みつつ、戦争は翌年終わりました。
学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 吉松は、その後も軍人としての人生を歩みます。明治4(1871)年、新政府によって御親兵(天皇を守る軍隊)が創設されると、これに加入。同9年、少佐へと昇進します。同年、熊本で新政府へ不満を持つ士族による反乱(神風連の乱)が起こると、鎮圧のために出動しました。上の写真は、この年に撮影したもので、向かって左から2番目の男性が吉松です。和服と洋服を折衷させたファッションが洒落ており、人々のライフスタイルが西洋化してゆく明治初期の時代背景を感じさせます。
学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 翌10年、鹿児島で大規模な士族反乱「西南戦争」)が勃発すると、吉松は再び戦地に赴きました。そして、乃木の部隊に所属し、熊本鎮台司令官・谷干城(たに・たてき)を救援するために、激戦地となった熊本城に向かいます。しかし、2月23日、田原坂の木葉山麓で撃たれ、壮絶な最期を遂げました。享年33歳でした。
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 今回の展示会に当たって吉松の子孫の方からいただきました写真資料の中には、吉松が戦死した際に身に付けていた軍服もありました。やや小さくて分かりにくいのですが、白矢印部分が銃弾の痕です。弾は、前方の右胸下方部から左の肩胛骨を貫通したようです。また、吉松のもう一つの遺品として、この軍服の中に入っていた懐中時計の写真も、今回、子孫の方から提供いただきました。
学芸員エッセイ「戊辰戦争と上町・小高坂」

 吉松の死後、その上司であった乃木は、凱旋後、遺族を訪ねています。乃木は、吉松の死を指揮官として詫びるとともに、その形見の品として、西南戦争での激闘を表現した絵画(写真上)を遺族にわたしました。福岡の画家に依頼したもので、洋刀を片手に戦う吉松の姿が描かれています。この時乃木は、遺族の今後について責任をもって見守ることを約束し、谷干城も、吉松の妻子を谷家に引き取りました。乃木は、その後も谷家を何度か訪れ、遺族のことを気にかけていたようです。

 戊辰戦争及び西南戦争は、時代が武家政権から近代国家へと大きく動く中で発生した悲劇でした。明治維新は、フランスなどの他国の「革命」に比べれば、死者が少なくて済んだという話を聞くことがあります。しかし、両戦争をはじめ幕末動乱から維新後の士族反乱においては、総計にして万単位の人々が亡くなっています。同時にそれは、その何倍もの数の「遺族」をつくったことも意味しました。また、時に戦いの巻き添えを受け、非戦闘員も多く犠牲となっています。そうしたことを考えれば、幕末維新期の死者数を決して「不幸中の幸い」のように理解してはいけないと思います。

 企画展「上町・小高坂の群像展vol.3 歴史を刻んだ人々」は、2月3日まで開催中です。ぜひ、お越しください。


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