学芸員エッセイ その6 「勝海舟を訪ねて」

勝海舟を訪ねて

 今月、個人的な用事で東京に行ってきた。目的は、①演劇鑑賞、②史跡めぐり、③新選組をモチーフとした飲食店に行く―の三つである。すべてたいへん楽しい思い出となったが、今回のエッセイは②について述べる。今回は、都内にある勝海舟関連の歴史スポットを5箇所訪ねてきた。

 勝海舟といえば、言わずと知れた龍馬に大きな影響を与えた開国派の幕臣である。「幕末の人物で好きなのは誰か?」と問われれば、龍馬に次ぐくらいの人気を誇ることもある大人物だ。たしかに、勝がいなければ龍馬の活躍はなかっただろうし、幕末という動乱の時代、アメリカに渡って海外事情を学び、帰国後は近代日本を背負う人材を育て、無血開城で江戸を戦火から救ったその歴史的偉業は、今もなお多くの人々を魅了するのもよくわかる。

 勝は、文政6(1823)年に江戸の本所亀沢町で生まれた。幼名及び通称は「麟太郎」、諱(実名)を義邦といい、「海舟」は号である。現在、生誕地の碑が東京都墨田区の両国公園内にある。まずは、そこを訪ねることにした。

学芸員エッセイ「勝海舟を訪ねて」①

 公園内にひっそりと立つ大きめの碑である。ここから、やがて激動の歴史の中で活躍する人物が産声を上げたのかと思うと、感慨深いものがある。

 次に、港区の赤坂にある勝海舟邸跡勝安房邸跡を見に行った。前者は、勝が安政6(1859)年から明治元(1868)年までを過ごした邸宅、後者は明治5(1872)年から同32(1899)年に死去するまで住んだ所である。「安房」とは、勝の通称「安房守(あわのかみ)」のことだ。
 勝海舟邸跡は、残念ながら木製の碑が一本立つのみで、当時を思わせるものは何も残っていない。しかし、ここで勝と龍馬が歴史的な出会いをしたのである。

学芸員エッセイ「勝海舟を訪ねて」②学芸員エッセイ「勝海舟を訪ねて」③

 よく、「龍馬は勝を斬るつもりで来た」という話が伝わっているが、これは疑問視されている。

 次に訪れたのは、港区にある「西郷南洲・勝海舟会見の地」である。「西郷南洲」とは西郷隆盛のことであり、江戸無血開城の際に二人が会談を行った場所(薩摩藩邸)がここである。勝は、開城の英断をすることで、多くの人々の命を救った。新政府軍の総攻撃で江戸が火の海になっていたら、その後の東京の発展も大きく遅れていただろう。

学芸員エッセイ「勝海舟を訪ねて」④

 最後に、墨田区にある勝海舟の銅像を見に行った。これは「勝海舟の銅像を建てる会」が墨田区に寄贈したものであり、勝の生誕180年に当たる2003年に除幕式が行われた。
学芸員エッセイ「勝海舟を訪ねて」⑤

 精悍な顔つきで指をさす姿は、日本の近代化に貢献した人物としての貫録を感じる。なお、台座の「勝安芳」は、明治になってからの名前である。

 さて、前述したように勝海舟の幼名及び通称は「麟太郎」である。この名前に関して、面白い(?)ネタがある。それは、大河ドラマ「龍馬伝」を見ていて思いついたものだ。
同ドラマの第7話「遥かなるヌーヨーカ」において、龍馬が家族に「黒船に乗って世界を見て回る」という夢を語る感動的なシーンがある。この時、アフリカについて語る際に「ゾウやキリンや、珍しい獣が数えきれないほどいるそうじゃ」と言っていた。龍馬は日本の夜明けを前に暗殺されたので、世界を見ることはできず、キリンやゾウにも出会えなかったのはご存じの通り。だが、龍馬は脱藩後、キリン(麒)ならぬ勝太郎、ゾウ()ならぬ後藤二郎と重要な出会いをすることとなる。
ちなみに、尊敬するはずの勝麟太郎を、龍馬は「勝太郎」と書いている手紙がある(1863年3月20日 坂本乙女宛)。2ヶ月後に書かれた通称「ヱヘンの手紙」では、きちんと「天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生」と修正されているのだが、「憐み」の字で間違うとは、何とも失礼に感じる。また、後藤象二郎の名前もほとんどの手紙で「庄次郎」と誤記している。少し残念な気持ちになる。

 なお、龍馬も勝も同じ「未(ひつじ)年生まれ」である。つまり、来年は二人とも年男というわけだ。しかも、2015年は龍馬生誕180年の節目の年でもある。

 記念すべき年に臨み、龍馬の生まれたまち記念館としても、今年以上によりよい展示、よりよいイベント、よりよい接客サービスをしていけるよう、学芸員として邁進致す所存です。来年も龍馬の生まれたまち記念館をよろしくお願いいたします。


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