学芸員エッセイ その9 「京都歴史探訪 その1」

京都歴史探訪 その1

 筆者は先日、幕末に関する史跡を巡るため、京都へと足を運んだ。

4月25日から当館で始まる「龍馬生誕180年記念『龍馬の歩み展 最終章 ~京都へ~』」の準備も兼ねての旅である。今回は、主に龍馬と新選組に関する歴史スポットを訪ねることとした。

 まず訪れたのは、京都市中京区にある八木家とそれに隣接する壬生寺である。前者は新選組の屯所(駐在所)があった場所、後者は新選組の訓練場に使われた寺である。文久3(1863)年3月、この壬生の地において京都守護職(会津藩)預かりで「壬生浪士組」が結成された。そして、同年の「8月18日の政変」での功績が認められ、「新選組」の名が与えられたのである。

 写真は八木邸である。ここは新選組の局長・芹沢鴨の暗殺現場にもなった。新選組の屯所は、この他にも前川邸と南部邸があり、それぞれ八木邸のすぐ近くにあった。なお、南部邸は現存していない。
学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その1」①

 壬生寺には、隊士たちの墓や顕彰碑、局長・近藤勇の胸像などがある。壬生寺には隊士たちの逸話が数多く残っており、近藤らが壬生狂言を鑑賞したり、沖田総司が子どもと遊んだりしたそうだ。
学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その1」②

 次に訪れたのは、壬生寺の近くにある光縁寺である。ここには、新選組総長の山南敬助の墓がある。筆者が訪ねた2月23日は、山南が切腹してちょうど150年の命日(日付は旧暦)であり、お寺の中でご焼香をすることもできた。
 新選組の規則は大変厳しく、違反したために処刑された者は数多い。総長の山南も例外ではなく、新選組からの脱走を図ったことにより、切腹を命じられた。脱走した理由に関しては、副長・土方歳三との対立や健康上の理由など、諸説がある。
学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その1」③

 次に、河原町付近の史跡巡りをしてきた。龍馬に関する史跡は次回のエッセイで紹介するとして、今回は新選組に関してのものをご紹介する。

 新選組といえば、元治元(1864)年6月5日に起きた「池田屋事件」を思い浮かべる人は多いだろう。この日、新選組は勤王志士たちによるテロを防ぐため、池田屋に斬りこみを行った。その結果、数多くの志士たちを殺害・捕縛し、新選組の名声は大きく高まることとなる。「池田屋事件の影響で明治維新は1年遅れた」とも言われている。
 この池田屋は現存していないが、同地には石碑と居酒屋が建っている。その居酒屋は、内装やメニューに新選組をモチーフにしたものを数多く取り入れているのが面白い。
学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その1」④

 尊攘志士たちのテロ計画の発覚は、新選組がある人物を捕縛したことに始まる。その人物こそ近江国出身の勤王の志士・古高俊太郎である。古高は、自らを骨董商と偽り、邸宅に武器を集めて倒幕運動の拠点としていた。新選組に捕えられた古高は、凄惨な拷問を受け、計画を自白したのである。
学芸員エッセイ「京都歴史探訪 その1」⑤

 なお、この池田屋事件では土佐出身の人物も複数名犠牲になっている。そのうち一人は高知城下の小高坂出身の望月亀弥太、もう一人は高岡郡岩目地村(現・日高村)出身の北添佶摩である。両者とも龍馬と面識があり、幕臣・勝海舟が責任者を務める神戸海軍塾のメンバーでもあった。だが、過激志士たちと交流してしまったがため、この事件に遭遇することとなる。
 塾生にテロリストがいたとなれば、幕府における勝の責任は免れない。塾は閉鎖され、やがて龍馬は新天地・長崎へと足を踏み入れ、薩長同盟に向けて歴史の針を進めていくのである。
 池田屋事件は、幕末史の、そして龍馬にとっても大きなターニングポイントになったことは間違いない。

 次回のエッセイでは、京都における龍馬関連の史跡について述べる。


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