学芸員エッセイ その11 「武市半平太没後150年」

武市半平太没後150年

 去る5月11日は、龍馬と同じく幕末の激動の中で活躍し、そして散っていった二人の人物の没後150年であった。

その人物とは、1861年に土佐勤王党を結成し、そのリーダーとなった武市半平太とその命令により京都で数々の暗殺事件に関与した岡田以蔵である。筆者はこの日、両名の墓参りをし、高知市の瑞山神社で行われた半平太の例祭(写真)に参加してきた。今回は、その半平太について述べる。

学芸員エッセイ「武市半平太没後150年」①

 半平太は、幕府に代わる新政権樹立のために土佐藩から政治を変えようとした。しかし、その方向性には吉田東洋暗殺(1862年)をはじめテロリズムが色濃く反映されており、京都での「八月十八日の政変」(1863年)で情勢が一変したこともあり、勤王党はやがて土佐藩から弾圧されていくこととなる。半平太は投獄、以蔵をはじめ他のメンバーも次々と捕縛され、拷問を受けた。こうして、勤王党は幕末の動乱の中、壊滅の道を歩んでいったのである。
 これだけを聞くと、半平太らがまるで「時代の敗北者」であるかのように聞こえてしまう。しかし、厳しい身分差別のあった土佐の地から、下士(身分の低い武士)であっても政治に参加していける一大ムーブメントを引き起こし、新しい国家構想を実現させようとしたその功績は、まさに龍馬に先駆けた維新の功労者であるといえよう。(もちろん、勤王党が京都で行った暗殺事件などのテロ行為は、許されないことであるが)

 高知市立龍馬の生まれたまち記念館には、半平太が獄中で書いた七言絶句の漢詩の書が常設展示されている。この資料が発見された背景には、獄中の半平太と交流があった門谷貫助(1843~94)という人物の存在がある。書に付属していた由来書によると、門谷は牢番でありながら半平太をたいへん尊敬しており、2人の間には強い信頼関係があったようだ。その門谷が半平太に「一生の記念に」と依頼して書いてもらったのがこの漢詩であるという。牢番からも慕われる半平太の人間性が反映されていると言えよう。
 また、半平太は獄中から妻をはじめ家族宛に多くの手紙を残している。そこには、半平太が牢番を通じて家族らから色々な飲食物・動植物をもらっていたことが記録されている。その一つ一つを紐解いていくと、妻への愛情や気遣いなどが垣間見え、政治の上では冷静で実直な半平太も人間らしい側面を持っているのだと感じることが出来る。

 劣悪な獄中生活を経て、土佐藩より切腹を命じられた半平太は、慶応元(1865)年閏5月11日、37歳の生涯を閉じた。前述の由来書には「夫人より差入れられし正装を着し、従容として三字状に切腹し端座して臥す」と記述されている。腹を三回切るという行為には、とんでもない気力・体力が必要であることは言うまでもない。その心中たるや、現代人の私たちには想像すらできないだろう。

 半平太の墓は、瑞山神社脇の階段の上にある。隣の墓は、半平太が生涯愛し続けた妻・富のものである。幕末の激動から150年、今は夫婦並んで静かな時を過ごしているようだ。

学芸員エッセイ「武市半平太没後150年」①


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