学芸員エッセイ その15 「高知県東部歴史探訪」

高知県東部歴史探訪

 先日、龍馬研究会主催の「東部・龍馬の足跡をたどるツアー」に行ってきた。その名の通り、高知県東部における龍馬や幕末史にかかわる史跡を巡る企画である。

 高知県では今、同県東部地域の魅力を発信しようと観光キャンペーン「高知家・まるごと東部博」を開催している。高知県内外の龍馬・幕末ファンの多くは桂浜などの県中心部を訪れることが多いが、東部地域にも岩崎弥太郎生家のある安芸市をはじめ重要な歴史スポットがたくさんあるのだ。今回のツアーでは、その一部を訪れ、普段なかなか見る機会のない史跡を色々と見学してきた。

 最初に訪れたのは、芸西村・和食(げいせいむら・わじき)である。同村は、近年はエディブルフラワー(食用花)の生産で知られているが、実は龍馬にかかわる重要な場所でもある。それを示すのがこの像だ。
学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」①

 この着物姿の女性、実は龍馬の妻・お龍である。お龍が龍馬の死後、この地に住んでいたことから、1993年に同村の琴ヶ浜に建てられた。お龍と手をつないでいる隣の女性は、妹の君枝である。この君枝が、和食出身で龍馬とともに海援隊で活躍した菅野覚兵衛(すがの・かくべえ=千屋寅之助〈ちや・とらのすけ〉)に嫁いでおり、その縁でお龍は明治元年から一年余り、千屋家に身を寄せていた。
 千屋家は和食の庄屋であり、村の行政を担う重要なポジションにあった。菅野覚兵衛は龍馬との関係がたいへん深く、ともに神戸海軍塾で鍛錬し、亀山社中を設立し、海援隊で活躍した。維新後はアメリカに留学し、海軍少佐になっている。

 芸西村からは他にも多くの維新志士たちが生まれ、彼らを顕彰する石碑が芸西村文化資料館の前にある。この碑には、菅野覚兵衛をはじめ13人の名が刻まれており、幕末動乱の中で倒れた者、明治という新しい時代に活躍した者がいたことを今に伝えている。
学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」②

 ツアーはさらに東部へと向い、田野町に到着した。ここは、第27代内閣総理大臣の浜口雄幸が青年時代に住んでいたことで知られる町だ。浜口は高知が生んだ最初の総理であり、「ライオン宰相」と呼ばれたことでも知られている。この像は、浜口の出身地である高知市五台山にある銅像の石膏原型を制作者のご遺族が田野町に寄贈したものである。
学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」③

 田野町は、四国の中でいちばん面積が小さい町だが、その中にも重要な史跡がたくさんある。代表的なのは「岡御殿」だ。ここは、土佐藩主である山内家が参勤交代等の際に宿泊した商家である。田野は江戸時代に商業が盛んな地域であり、その中でも岡家(米屋)はたいへんな豪商であったという。その岡家によって天保15(1844)年に造られたのがこの建築物である。
学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」④

 次に、中芸(ちゅうげい)高等学校の場所ある郡奉行所と田野学館及び獄舎跡地である。ペリー来航と同じ嘉永6(1853)年、土佐藩によってこの地に安芸郡奉行所が設置された。この敷地内には獄舎も造られており、後に三菱財閥を創設する岩崎弥太郎も入っていたことがある。また、翌年には藩校・田野学館も併設され、ここで中岡慎太郎や後述の清岡道之助も学んだ。
学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」⑤

学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」⑥

 最後に、元治元年(1864)年に起きた「野根山事件」に関する史跡である。同事件は、土佐藩による勤王党の弾圧が強まり、リーダーの武市半平太も投獄されていた頃、田野出身の勤王志士・清岡道之助が半平太の解放を訴えて決起したことに端を発する。土佐藩はこれを強訴とみなして清岡ら23人を捕縛、護送の道中に一切の取り調べもなく奈半利川原で全員を斬首刑とした。処刑されたメンバーは「野根山二十三士」と呼ばれ、田野町福田寺には彼らの墓が並んでいる。
 なお、高知県東部を南国市から奈半利町までつなぐ鉄道「ごめん・なはり線」には、各駅にマスコットキャラクター(デザインしたのは高知出身の漫画家である故・やなせたかし氏)が設定されており、田野駅の「田野いしん君」は、この二十三士がモデルとなっている。
学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」⑦

学芸員エッセイ 「高知県東部歴史探訪」⑧

 この他にも、高知県東部には数多くの魅力的な歴史スポットが多数存在する。公共交通機関で行くとすれば、「ごめん・なはり線」の1日乗り放題きっぷがオススメである。


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