学芸員エッセイ その21「東京幕末歴史探訪1」
東京幕末歴史探訪1
筆者は、今月頭に東京に行ってきました。東京行きの機会は昨年何度かありましたが、今年になってからは初めてです。今回も都内に残る史跡を複数巡ってきましたので、そのいくつかをご紹介します。
まずは、文京区小石川にある傳通院(でんづういん)です。ここは、浄土宗の寺院なのですが、幕末に京都で活躍した治安維持組織・新選組と深い関わりがある場所でもあります。
文久3(1863)年2月8日、後に新選組へとつながっていく浪士組がこの地で結成されました。浪士組は、傳通院に付属する寺・処静院(しょじょういん)に集合し、その後京都に向けて出発したと伝わっています。処静院は後に火災で廃寺となりましたが、その前に立っていた石柱が現在も残されています。
処静院の和尚は公武合体派の人物で、幕臣の山岡鉄舟らと交流がありました。結成集会には、後の局長・近藤勇、同じく副長・土方歳三らも参加し、やがて歴史の大舞台で活躍していくこととなります。新選組の歴史は、この処静院からスタートしました。
なお、この浪士組結成は、幕府が京都での治安維持のために庄内藩出身の志士・清河八郎の提案を受けて実施したものです。しかし、清河は実は勤王思想の持ち主であり、京都に到着した近藤らに尊王攘夷のために働くように訴えました。これが浪士組の分裂を招き、清河ら多くのメンバーは江戸への帰還命令を幕府から受けます。京都に残ることを選んだ近藤らは雇用主を失うことになったのですが、やがて京都守護職に就いていた会津藩主・松平容保の目に留まり、3月13日に同藩の預かりとなりました。そして、尊王攘夷派を京都から追放した「八月十八日の政変」において警備に当たった働きが認められ、「新選組」の名が与えられたのです。
ちなみに、この3月13日は、日本記念日協会により「新選組の日」として登録されています。また、2月27日も「新撰組の日」であり、これは同日に京都で新選組の前身である「壬生浪士組」が結成されたことに由来しています(ただし、こちらは記念日協会には未登録。また、日付に関しては諸説あります)。よく見ると、前者は「新選組」、後者は「新撰組」で表記が異なります。史実的にどちらが正しいかの問いがよく聞かれますが、隊の内部でも当時から双方使われていたので「どちらも正しい」ようです。
次に筆者が訪れたのは、上野の西郷隆盛像です。この像は、明治22(1889)年に明治天皇が西郷に対する「逆賊」の汚名を取り除いたことを機に、薩摩の同郷者たちが建立へと至らせたものです。同26年に起工、同30年に竣工、除幕式は同31年に行われました。制作したのは彫刻家・高村光雲で、イタリアの版画家・キヨソネが描いた西郷の肖像画をモデルとしています。(連れている犬は別の彫刻家の作品)
ところが、その元となった肖像画は、キヨソネが西郷の血縁者をもとに描いたもの(顔の上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山巌)であり、いわばモンタージュなのです。しかも、描いたのは明治16年(西郷の死後)であり、キヨソネ自身も西郷との面識はありません。実は、西郷のものと明確に確認できる写真は今のところ1枚も確認されておらず、その容姿については諸説があります。
なお、自由民権運動で知られる板垣退助は、建立時からこの像に対して不快感を覚え、改鋳を目指していたようです。板垣は、幕末期から西郷と面識があったので、この像及び当時から世間に流布されていた肖像画が事実と異なっていたことを問題視していました。そこで、明治40(1907)年、熊本出身の画家・光永眠雷に依頼して、板垣自身の記憶等をもとに「最も真像に酷似した肖像画」を描かせました。この肖像画に関しては、昨年、高知県における歴史研究団体「土佐史談会」の機関誌で論文が発表されています。
次回のエッセイでは、桜田門と品川の龍馬に関する歴史スポットを紹介します。