学芸員エッセイ その27「実業家・堀内壽太郎」
実業家・堀内壽太郎
堀内壽太郎(ほりうち・じゅたろう)という人物をご存じでしょうか。激動の幕末に現・高知市上町で生まれ、後に東京で製紙工場を経営、ヒット商品「キレー紙(し)」を生み出して国内外にその名声を広めた一大実業家です。このエッセイでも昨年12月に、企画展の宣伝も兼ねて「上町・小高坂の偉人達 その4」で少しだけご紹介しました。
今回は、筆者がその後進めた堀内に関する研究のお話です。実は、その企画展が終了した後、上記ホームページを見てくださった堀内の子孫の方が当館にお手紙をくださいました。驚いた筆者は、すぐにコンタクトを取り、お会いする機会を設けていただきました。そして、堀内に関する貴重な資料も色々と見せていただいたのですが、その中には高知ではもう入手が不可能かもしれないものも多々あり、子孫の皆様が今日まで守ってきてくださったことに心より感謝致しました。この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。
そして、その資料に基づく研究成果を、筆者はこのたび論文発表することとなりました。発表の場は、高知の歴史研究団体「土佐史談会」の機関誌『土佐史談』です。これを機に、堀内のことを多くの方々に知っていただければ幸いです。
堀内は、文久3(1863)年11月12日、現・高知市上町の水通町に誕生しました。昭和初期に高知地理学会によって作成された「高知市桝形方面現住者名図」(高知市民図書館蔵)で確認したところ、龍馬の生まれたまち記念館の専用駐車場付近にその生誕地があったようです。同地図には「実業家堀内寿太郎出身地」と書かれており、当時、碑等が存在していた可能性もあります。もし、何かご存じの方がおりましたら、ご一報いただければ幸いです。
堀内の戸籍が残っているかを高知市役所で調べたところ、上町に住んでいた頃のものはすでに廃棄されていました。堀内の高知における住所が分かる最古の戸籍は、「高知市要法寺町五番屋敷」と書かれた上に線が引かれ「本町八拾四番屋敷」となった住所に除籍印が押されたものでした。それによると、父は「安次」という人物で、壽太郎はその長男として生まれ、明治7年12月15日に家督を相続したようです。戸籍に関しても何かお持ちの方がおりましたら、ご連絡いただければ助かります。
『高知県人名事典』(以下『人名事典』)によれば、堀内は「11歳で父を亡くし、家は貧しく、12歳から商店に奉公に出、のち製紙職工となる」と書かれています。しかし、子孫の方からコピーをいただいた雑誌『商工世界太平洋』第七巻・第十二号に掲載された「製紙界の奮闘者 堀内壽太郎氏成功史」(以下「成功史」)という記事には、「十四歳の春、佐藤と云ふ家に奉公し」と書かれていました。同資料は、生前の堀内を取材し、その人生を記録した数少ない記事で、やや物語風の書き方ではありますが、史料としての信頼度は比較的高いと思われます。以下、この「成功史」に基づいて、堀内が東京で頭角を現すまでを紹介します。
奉公先を出、実業家としての一歩を踏み出した堀内は、まずはランプ行商の事業を始めます。この計画は見事に成功し、商売に対する自信をつけた堀内は、さらに大きな事業をしようと、その資金を元手に製紙会社を興しましたが失敗。その後、何とか苦境を乗り切った堀内は、妻・春(ハル)とともに大阪へと移ります。
同地では、職を転々としますが、やがてランプ行商を再開し、以後は自営の道を模索するようになりました。その後、長崎の高島炭鉱の労働者募集の請負事業にも着手しますが、その過程で実際に現地へ赴いて労働する経験もしたようです。2年ほどこの仕事を続けましたが、未来が見いだせずに退社、大阪に帰り、再びビジネスチャンスを探しました。しかし、その機会に恵まれそうにもなく、妻とともに新天地を求めて上京に至ります。
その後、東京の製紙会社に雇用されることとなった堀内は、わずか1年で8回の昇給を達成するほど働き、監督へと出世しました。しかし、明治28(1895)年、支配人との対立が原因で退社、その慰労金を元手に荷車を借り、紙のリサイクル事業を始めます。それが徐々に軌道に乗り始めた時、郵船会社の船が難破するという事故が起こりました。これにビジネスチャンスを見出した堀内は、難破船にあった濡紙を買い、それを乾燥させて売り出すというやり方で、大きな利益を生み出しました。この成功こそが、やがて巨万の富をもたらす堀内製紙所の原点だったのです。
そして、明治31年、堀内は小石川区戸崎町84(現・東京都文京区)に本格的な製紙工場を拡張、さらに同33年には150人の職工が働ける大工場を同区氷川下町30(同)に造りました。しかし、その直後に物価の大暴騰が起き、運搬コストの面でも大きな問題が生じてしまいます。工賃を削減し、かつ生産額を増やすにはどうすべきかを悩んだ堀内は、苦労の末、明治37年に機械を開発するに至りました。これが功を制し、堀内の製紙業は大きく発展します。
堀内の代名詞である「キレー紙」は、堀内のこうした過程の中で生み出されました(開発は明治29年。明治36年に商標登録)。この商品がヒットした背景には、当時の日本における衛生問題がありました。それが、明治時代に国外から持ち込まれた疾病・ペストです。この流行に対し政府は、庶民の間で鼻紙や落とし紙(トイレットペーパー)として使われていた「浅草紙」の原料運搬を停止しました。浅草紙は古紙をリサイクルして作ったものなので、その原料に衛生的な問題が生じたのです。
堀内は、浅草紙に代わる商品として、防腐剤と熱気消毒を施したにおい付きの紙を開発し、これを「キレー紙」と名付けて売り出しました。この事業は、当初は花柳界をターゲットとしていましたが、やがて大衆にも広まり、大ヒットとなりました。子孫の方が所有する資料の中には、その看板が残されていました。それが上の写真です。「にほひ入」と書かれているのが確認できます。
この事業が成功したことで、工場は大規模なものに成長し、成増(現・東京都板橋区)にも第2工場が建設されました。下の写真は、第1工場を描いた絵葉書です。いかに大きな工場であったかがよく分かります。
しかし、大正10(1921)年11月2日、堀内は病により、その激動の人生に幕を下ろすこととなりました。享年59歳。墓は製紙工場の近所である善仁寺(ぜんにんじ)にあります(写真下)。『人名事典』には「大正9年」に没したとありますが、墓には「大正十年」と刻まれているので、これは誤りと思われます。
工場経営は息子が継ぎ、しばらくは順調だったようですが、昭和になってから陰りが見え始めます。子孫の方の話によると、工場はやがて別の企業に取って代わられ、昭和19年には最後の砦であった「堀内壽太郎商店」もなくなり、堀内製紙は終焉を迎えたとのことでした。
堀内壽太郎研究に関しましては、今後も進めていきたいと考えております。なお、「土佐史談会」の機関誌は12月に発行予定なので、ぜひともお読みいただければ幸いです。また、関連資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければ助かります。