学芸員エッセイ その30「龍馬・海舟・廣井磐之助」

龍馬・海舟・廣井磐之助

 龍馬の生まれたまち記念館では、平成29(2017)年1月7日から2月5日まで企画展「偉人を探そう!上町・小高坂の群像展vol.2」を開催します。坂本龍馬をはじめ、幕末から現代にかけて活躍した偉人達を政治、文化、実業等の分野からピックアップし、そのゆかりの品々も展示します。ぜひ、お越しくださいませ。
学芸員エッセイ「龍馬・海舟・廣井磐之助」

 前回のエッセイでは、同企画展の宣伝も兼ねて上町の偉人である政治家・河野敏鎌(こうの・とがま)に関する記事を書きました。今回は、小高坂出身の武士・廣井磐之助(ひろい・いわのすけ)を紹介します。

学芸員エッセイ「龍馬・海舟・廣井磐之助」

 磐之助は、天保11(1840)年、小高坂村(現・高知市大膳町〈だいぜんちょう〉)に生まれました。幼名は「熊太郎」と言います。幕末動乱に政治的な意味では関わっていませんが、「仇討ち」で有名な人物です。しかも、この仇討ちの過程で龍馬や勝海舟とも接点を持っていました。

 安政2(1855)年10月、土佐藩の軽格(身分の低い武士)であった磐之助の父が、藩士の棚橋三郎によって殺害されるという事件が起きました。棚橋は、酒に酔って磐之助の父にからみ、海に突き落として溺死させてしまったのです。この事件により、棚橋は藩外追放の罰を受けましたが、現在とは違って「喧嘩両成敗」の時代。被害者であるはずの廣井家も、家名断絶の処分が下されてしまいました。
 父を殺した犯人への仇討ちを決意した磐之助は、その後居合を学び、棚橋探しの旅に出ます。しかし、その際に関所破りの罪を問われて捕えられ、以後3年にわたって謹慎の身となりました。文久3(1863)年、今度は槍術修業の名目で出国し、伊予、讃岐、播磨、摂津などの諸国を訪ねまわるのですが、なかなか棚橋は見つかりません。しかし、大坂に滞在中の龍馬と会ったことで、その後の展望が開けることとなります。
 龍馬はこの頃、幕臣で軍艦奉行の勝海舟の門下となって操船術等を学んでいました。事情を聞いた勝は、その立場を生かして「仇討ち免状」を書き、各所に情報網を敷きます。これが実って、棚橋が紀州(現・和歌山県)に潜伏していたことが判明すると、勝は紀州藩に依頼して、その身柄を同藩から追放するように仕向けました。そして、磐之助は、紀州と和泉(現・大阪府)の国境で棚橋を待ち構え、決闘の末、ついに本懐を遂げたのです。父を殺されてから、足掛け9年の長い旅が終わった瞬間でした。この決闘が行われた場所(現・大阪府阪南市)には、それを示す石碑も建っています。

 なお、この仇討ち後に撮影したと思われる磐之助の写真が、子孫の家から見つかったということを報じる記事が、昭和39(1964)年6月24日付の「高知新聞」に載っていました。そこには、椅子に座り、左手に長い銃を持ち、海軍塾のものと思われる服装に身を固めた磐之助の姿が写っており、表情は何となく本懐を遂げた満足感からか晴れ晴れとしているようです。現存する磐之助の写真は、これが唯一と思われますが、もし何かご存じの方がおりましたら、ご一報いただければ幸いです。

学芸員エッセイ「龍馬・海舟・廣井磐之助」

 しかし、その3年後の慶応2(1866)年9月、磐之助は、27歳の若さで病没しました。「脚気(かっけ)」が原因だったようですが、長年にわたって仇討ちに費やした心身への負担ゆえではないかという見方もあります。まさに、仇討ちにすべてをかけたような人生でした。
 磐之助の墓は、高知市平和町の墓地にひっそりと立っています。この墓表の字を書いたのは、磐之助の仇討ちを援助した勝海舟でした。勝の字を刻んだ墓は、おそらく土佐では唯一と思われます。筆者もこの墓を訪ねてみたのですが、確かに墓の側面には、「勝安芳(勝の明治になってからの名前。「海舟」は号)」の名が刻まれていました。また、墓の裏には磐之助の人生が記録されており、そこには「坂本龍馬」の文字も確認できます。
学芸員エッセイ「龍馬・海舟・廣井磐之助」

学芸員エッセイ「龍馬・海舟・廣井磐之助」

 なお、磐之助の決闘は「日本最後の仇討ち」と呼ばれていますが、仇討ちそのものは明治6(1873)年に新政府によって禁止令が出されるまで、行われていたようです。「忠臣蔵」に代表されるように江戸時代においては、仇討ちは名誉なことであり、特に親の仇を取った子は「孝子(=こうし、親孝行な子という意味)」と呼ばれて称賛されました。磐之助邸跡の碑に刻まれた「孝子」の字は、それを物語っているようです。


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