学芸員エッセイ その31「小高坂の砲術家&実業家」
小高坂の砲術家&実業家
現在、龍馬の生まれたまち記念館では、企画展「偉人を探そう! 上町・小高坂の群像展vol.2」を開催中です。幕末から現代にかけて政治や文化、実業等の分野で活躍した人物をパネルと資料で紹介しています。開催期間もあとわずかとなりましたので、ぜひ、お越しいただければ幸いです。
前回のエッセイでは、小高坂(こだかさ)出身の武士・廣井磐之助(ひろい・いわのすけ)について書きました。今回は、小高坂ゆかりの偉人を3人ほど紹介します。
一人目は、幕末の砲術家・西内清蔵(にしうち・せいぞう)です。西内は、文化14(1817)年、小高坂村の三ノ丸で生まれました。そして、やがて始まる激動の時代に、知恵と技術をもって向き合った人物でした。
一般的に「幕末」といえば、嘉永6(1853)年のペリー来航から話を始めることが多いと思います。しかし、「黒船」はこの時突然現れたわけではありません。すでに18世紀の後半から日本近海には外国船が出没し、幕府も危機感を募らせていました。19世紀に入ると、ロシアが通商を求めて日本に迫ったり、イギリス船が長崎に不法侵入したりする事件が起こり、この頃からすでに「鎖国」を揺るがす不穏な空気が、国内外に着々と作られつつあったのです。西内が少年時代を過ごした頃も、まさにこの「幕末の胎動期」といえる時期で、人々の間に国防意識が高まっていました。そして、そのためには、刀や槍より西洋流砲術が必要との考えが多く生まれ、幕府も各藩もその取り組みを進めていたのです。
とりわけ、海に面した土佐藩では、海防問題は重要な課題であり、土佐藩でも砲術の教育普及を重視するようになりました。その中で、徳弘董斎(とくひろ・とうさい)や田所左右次(たどころ・そうじ)などの優れた砲術家が生まれ、彼らは多くの人材を育てました。
西内は、早くから田所に師事し、ペリーが来航した嘉永6年には藩命で砲術視察の旅に出かけています。山口や長崎で見聞を広めた西内は、この時の記録を『砲術修行西国日記』と題してまとめました。翌年帰郷すると、小高坂の山ノ端(やまのはな)に「的場」を構え、砲術の指導を行いました。ここで、坂本龍馬や武市半平太も練習に励んだと言われています。
砲術は、ただ弾丸を撃てばよいというものではなく、まずは火薬に関する知識が必要となります。西内はこれに関してもずば抜けており、それを象徴するのが、下記の史料です。
西内が執筆した西洋流砲術の記録集『当世火術新篇』です。貴重な史料ですが、今回の企画展でより多くの方に知っていただきたく思い、展示することとなりました。火薬の調合や砲の撃ち方等が詳細に記録されており、写真の通り、分かりやすい図も描かれています。同史料の後半部分には、現在でいうところの「Q&A」のコーナーも設けられているなど、西内が砲術の教育普及に役立ててもらおうと工夫を施した意図も感じることができます。同史料は、徳島大学名誉教授の渋谷雅之氏によって活字化されており、同氏の著書『近世土佐の群像(4)銃砲術の系譜』で全文を確認することができますので、ぜひともご覧くださいませ。同著によると、「硝石精」は硝酸、「火酒」はエチルアルコール、「白煙」は二酸化炭素の発生を指しているとのことです。江戸時代、これほどにまで化学に精通していた人が土佐の地にいたことに、驚かされる史料です。
二人目は、小高坂で生まれた実業家・石川七財(いしかわ・しちざい)です。大河ドラマ「龍馬伝」の準主役でもあった三菱の創始者・岩崎弥太郎と深い関連がある人物です。
文政11(1828)年、石川はこの石碑が立つ現・高知市山ノ端町に誕生しました。家は身分の低い武士階級でしたが、やがて藩から下横目(下級警察官)の任務を与えられるようになります。
明治3(1870)年、土佐商会(土佐の特産品販売等を行う藩営機関)の大阪出張所で監督者だった岩崎弥太郎に乱脈経営の疑惑が浮上しました。石川は、藩からの命令でこの調査に赴きました。しかし、現地で岩崎に会った石川は彼の人柄にほれ込み、その下で働くことを決意したのです。岩崎もまた、石川の才能を見抜き、歓迎しました。
その後、土佐商会の経営を岩崎が継いだ「九十九(つくも)商会」に入った石川は、同郷の川田小一郎(かわだ・こいちろう)とともに三菱会社の創立に尽力します。次々と事業を切り開く石川の姿に、岩崎は「草むらを開墾するのは石川に、作物を育てるのは川田に託す」と評しました。タイプは違えども、石川と川田は名コンビだったようです。
明治5(1872)年、九十九商会は「三川(みつかわ)商会」と社名を改めました。これは、岩崎を支えた幹部である石川と川田、そして同じく土佐出身の実業家・中川亀之助(森田晋三)の「川」が元となっているといわれています。「三人の川」で三川商会というわけです。それほどまでに、石川たちは岩崎に信頼されていたということでしょうか。
最後に、岩崎とも関係が深いもう一人の実業家・豊川良平(とよかわ・りょうへい)を紹介します(掲載の肖像写真は、当館蔵の『幕末明治文化変遷史』より)。豊川は、嘉永5(1852)年に上町で生まれた人物で、岩崎の従弟(いとこ)に当たります。藩校で学んだ後、岩崎とともに大坂へ出、次いで移った東京の慶応義塾において政治経済を修めました。維新後、岩崎の意を受けて三菱商業学校と英語学校「明治義塾」の創設に関与。明治義塾は政治、法律、経済等を学ぶ機関で、後に総理大臣となり「五・一五事件」で暗殺されることとなる犬養毅も運営に携わっています。岩崎の死後は、その弟・岩崎弥之助によって第百十九国立銀行の頭取に任命され、その後は三菱合資会社の銀行部長に就任しました。
豊川は、岩崎や石川よりずっと後に生まれているので、三菱創業時の事業には関わっていません。しかし、岩崎の死後も彼の後を継ぐかのような働きぶりを見せ、民間金融業界で大きな功績を残しました。もし、豊川がもう20年ほど早く生まれていたら、石川らと並んで岩崎の側近となり、前述の「三川商会」は、石川、川田、中川、豊川の「四川商会」になっていたかもしれません。
上町・小高坂からは、こうした優れた人物がたくさん輩出されています。「偉人を探そう!上町・小高坂の群像展vol.2」は2月5日までの開催です。ぜひ、お越しくださいませ。