学芸員エッセイ その34「新選組と勝海舟、そして徳川慶喜」

新選組と勝海舟、そして徳川慶喜

 筆者は、去る3月18日、東京都日野市に行ってきました。日野市は新選組ゆかりの歴史スポットが多々あり、筆者としても思い入れのある地です。毎年5月には「新選組まつり」も開かれており、昨年のエッセイでも紹介しました。

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 今回は、「新選組隊士及び関係者尊霊150回忌総供養祭」への参加が目的です。これは、今年が新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」の勃発から149年、すなわち1868年(慶応4~明治元年)時における同戦争犠牲者にとっては「150回忌」となるのに合わせ、高幡不動尊金剛寺(新選組副長・土方歳三の菩提寺。写真は同寺の五重塔)で開催されたものです。新選組だけでなく、戊辰戦争で亡くなった人々を「敵味方問わず」供養することに大きな特徴と意義があります。
学芸員エッセイ「新選組と勝海舟、そして徳川慶喜」

 
 この日、会場は全国からの幕末ファンでいっぱいでした。一般からの参加者は、往復はがきによる申し込みで先着順だったのですが、定員数はあっという間に埋まり、急遽席数を増やしたそうです。それでも、会場は満席で、新選組の全国区人気、そして維新の犠牲者を追悼する人々の真剣な思いを感じました。
 幕末人物の子孫の方々も多く来場されており、これほど関係者が集まる催しも今後なかなかないと思います。新選組局長・近藤勇、同副長・土方歳三、同六番隊組長・井上源三郎、幕臣・勝海舟、そして新政府軍を率いた薩摩藩・西郷隆盛の末裔の皆様も参列され、激動の歴史に思いを馳せられていました。子孫の方々の中には、会津松平家14代当主・松平保久氏もおられ、「会津藩と新選組」のテーマで講演もしてくださいました。会津松平家は、幕末に藩主・松平容保が新選組らを率いて京都の治安維持に当たったことで知られています。「新選組」という名前も、もともとは会津藩にかつて存在した精鋭部隊の称号でした。
 現在、高知県では、幕末維新史をテーマとした博覧会「志国高知 幕末維新博」が開かれています。同博では、幕末明治の人物や事象にスポットを当てた観光PRを図っていますが、その中で「会津の人々への配慮」も念頭に入れています。戊辰戦争等で多くの悲劇を経験した会津藩、そしてそのことを知る福島の人々の感情もきちんと考慮しなければならないという主催者側の姿勢です。
 福島の皆様は、土佐のことをどのように思っているのでしょうか。その回答の一つとも言える記事を昭和61(1986)年4月7日付の「高知新聞」に見つけることができました。会津史談会理事・塩谷七重郎氏が高知を訪れた際のインタビュー記事です。この中で塩谷氏は、「土佐は福島の人々にどう見られているか」という問いに対し、「薩長土では一番親しまれていますね。土佐は山内容堂公が松平容保と同じ公武合体派でしたし、戊辰でも土佐軍は一番軍紀が厳しく、〝武士の情け〟をかけてもらったりもしていますから」と答えておられます(「武士の情け」は、過去の当エッセイで紹介した吉松速之助のエピソード等のことです)。供養祭における松平氏の講演を聞いて、こうした福島の方々の思いに応えるため、私たちには高知県民だからこそできることがあるのではないかと改めて思いました。
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 供養祭が厳かに行われた後は、ゲストによるトークショーが行われました。登壇したのは、土方歳三の兄の子孫である土方愛さんと井上源三郎の五代目子孫・井上雅雄さん、そして、映画「燃えよ剣」で土方を演じた栗塚旭さん、大河ドラマ「新鮮組!」で井上を演じた小林隆さんです。撮影現場での裏話や新選組への想いなど、こうした機会だからこそ聞ける貴重なお話を堪能することができました。(上の写真は、金剛寺内にある土方歳三像です)

 
学芸員エッセイ「新選組と勝海舟、そして徳川慶喜」

 
 供養祭の後は都内で一泊し、翌朝には、昨年出来たばかりの新しい歴史スポットを訪れました。東京都港区赤坂にある「勝海舟・坂本龍馬の師弟像」です。赤坂には、かつて勝の邸宅があり、文久2(1862)年の秋~冬頃、龍馬はここを訪れました。そして、国際感覚あふれる開明派の幕臣・勝に弟子入りし、本格的に歴史の表舞台へと飛び出していくのです。二人の出会いはまさに幕末史における重要なターニングポイントであり、そのことを記念して勝ゆかりのこの地に建てられました。
 どっしりと座って貫録のある勝と、優れた師に会ったことで指針を見出したような龍馬の姿は、たいへん迫力があります。世界に開かれた視点を持っていた勝と、世界を夢見たであろう龍馬に相応しく、二人は太平洋を望むように東向きに置かれているそうです。龍馬は、明治の世を見ずに亡くなりましたが、勝の目に新時代の日本はどう写ったでしょうか。

学芸員エッセイ「新選組と勝海舟、そして徳川慶喜」

 
 その後は、谷中霊園(台東区)にある15代将軍・徳川慶喜の墓を見てきました。この霊園は、たいへん広範な敷地を持っており、数多くの歴史上の人物が眠る地としても有名です。近代日本を代表する実業家・渋沢栄一や早稲田大学の創設に尽力した小野梓、画家・横山大観などがその例です。
 慶喜の墓は、霊園の奥の方(JR日暮里駅を入口と見た場合)にありました。写真の向かって左側がそれで、右側は妻・美賀子のもの、中央は顕彰碑です。周りは塀と鉄格子で囲まれ、普段は関係者以外立ち入り禁止となっています。将軍の墓にしてはそれほど大きくない印象もありますが、周りの墓とは明らかに違う風格が漂っていました。

 今年は大政奉還から150年の節目であり、前述の通り、高知県ではそれに合わせた観光博覧会が開催されています。大政奉還は、日本史における大きなターニングポイントであり、武家政権を終了させ、近代日本を作る原点となりました。
 しかし、それは決して「徳川の敗北」ではありませんでした。それどころか、慶喜は新しい時代に再び力を持つことを見越したうえで、政権返上を行ったと考えられています。その証拠となる文書が、幕府の教授職・西周(にし・あまね)が慶喜の側近に宛てた文書「議題草案」です。ここには、慶喜が西洋の官制に倣ったシステムをもって再び政権を担うビジョンが記されていました。慶喜は、①三権分立に基づいた機関を設置、②それらを将軍が「大君」として支配する、③天皇は象徴的存在と位置付ける―ことで、実質的に自身がトップに君臨する仕組みを考えていたのです。
 これに加えて、慶喜はこの頃、フランス流の軍制を採り入れ、幕府軍の強化も行っていました。さらに、政権返上をしたといっても、幕府の莫大な領地と経済力は依然としてそのままです。大政奉還の後も、幕府が勢力を挽回する要素は、まだまだ存在していたのです。
 こうした幕府の「巻き返し」は、新しい時代に徳川は不要と考える薩摩・長州らにとって、まさに脅威でした。やがて、薩長は武力討幕の指針を固め、それは冒頭に述べた戊辰戦争という大きな火種につながっていったのです。

 幕末維新史は、決して「幕府を倒した側」だけでは語れません。「幕府を守ろうとした側」や「有能な将軍や幕臣」といった要素もしっかり見ていかないと、本質的な部分で分かったことにはならないと思います。博覧会開催中もそのことを忘れず、歴史に対して学術的観点や観光マインド等の様々な視野で向き合っていきたいものです。


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