学芸員エッセイ その35「霧島・鹿児島の龍馬の足跡をたどる旅」

霧島・鹿児島の龍馬の足跡をたどる旅

 筆者は先日、「龍馬研究会」の歴史探訪ツアーで鹿児島に行ってきました。龍馬と幕末史を語るうえで欠かせない地です。今回のエッセイでは、同ツアーの一部をご紹介します。
学芸員エッセイ「霧島・鹿児島の龍馬の足跡をたどる旅」

 鹿児島に入り、最初に訪れたのは、霧島神宮(写真上)です。ここは、建国神話で知られる瓊々杵尊(ニニギノミコト)を祀った神社で、龍馬も「新婚旅行」の際に訪れました。そのことは、慶応2(1866)年12月4日付で龍馬から乙女に充てた手紙の中に確認することができます。
 当日は、平日にもかかわらず多くの観光客でにぎわっており、外国人の参拝者も大勢いました。地元ガイドの案内で、神社の詳細や隠れた人気スポット等を知ることができたのですが、個人的にいちばんインパクトがあったのが、下の写真です。
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 境内の「神木」の一部なのですが、何に見えますか? 烏帽子をかぶった神主が、右に向いて祈っているように見えないでしょうか? まさに自然が作りだした造形美であり、「神木」の名に恥じぬ偶然です。
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 次に、訪れたのは、塩浸温泉龍馬公園です。ここは、寺田屋事件で重傷を負った龍馬が療養のために訪れた温泉があった場所で、現在は観光地として整備されています。龍馬の入った温泉は、残念ながらわずかな痕跡を残すのみ(写真上)となり、入浴することもできません。しかし、同公園内には入浴施設もあり、温泉としての機能は健在でした。
 周辺には、龍馬とお龍が通った山道や二人の像、資料館等があり、想像力を膨らませながら楽しむことができます。さらに、公園内にはカモが何匹か飼われており、餌付けをすることもできます。この日偶然、龍馬・お龍の夫婦像の近くにつがいと思われる2匹のカモがいたので、像を背景に写真を撮ることができました(写真下)。まるで、新婚旅行を楽しむ龍馬・お龍像の前で、カモの夫婦が新婚生活を楽しんでいるかのようでした。
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 その後、フェリーで鹿児島市に向かい、同市内にある「維新ふるさと館」を見学します。同館は、幕末維新期における薩摩藩の役割を、多角的な視点から情報発信する資料館で、充実したメディアコンテンツが魅力です。特に、薩摩出身の人物達が幕末維新期の様々な場面でどのように活躍したのかを、ジオラマと映像の組み合わせで演出する展示が印象に残りました。その内容は、たいへん分かりやすくて芸術性も高く、かつ時間的にも簡潔にまとめられており、見ていてなかなか飽きないのです。
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 また、薩摩の歴史に関する現物資料を展示する「維新学習ゾーン」や薩摩の科学技術の高さを模型や映像で理解することが出来るコーナーなど、充実した内容が目を引きます。一種のテーマパーク的な要素がちりばめられており、ここに来れば、幕末維新期において薩摩がいかに牽引役を果たしたかを肌で感じることが出来るでしょう。
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 ちなみに、同館の近くには西郷隆盛誕生地の石碑(写真上)がありました。これは今回のツアー見学の対象外でしたが、個人的に時間を作って見に行きました。来年は、大河ドラマ効果により、この碑の前に連日大勢の観光客が集まることでしょう。西郷の誕生地とあって、なかなか立派なものでした。
 その後、フェリーで鹿児島湾をわたり、大隅半島の垂水市にある宿泊地へ。船中で見た桜島は雄大で、まさに鹿児島のシンボルとしての威厳を誇っていました。西郷も大久保利通も、この光景を見て育ったのでしょう。
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 翌朝、再びフェリーで鹿児島市に行き、石橋記念公園を訪れました。ここは、幕末期に城下整備の一環として架けられた石橋群を後世に残すために整備された公園です。大河ドラマ「篤姫」でロケ地としても使用されたそうです。
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 敷地内には、美しい石橋が複数ありますが、同時に薩英戦争及び西南戦争に関わる歴史スポットも複数あります。写真上は、西南戦争における官軍側の慰霊碑です。全国から官軍として派遣され、戦死した人々の名が刻まれていました。高知県は26名で、鹿児島県出身者の名前もありました。つまり彼らは、薩摩出身でありながら官軍として薩摩軍と戦ったということになります。複雑な心境であったことでしょう。
 ちなみに、「政府軍の圧勝」というイメージを持っていた西南戦争ですが、実は戦没者数は同じくらいであることを碑の隣に設置されている解説で知りました。それによると、官軍側は6840余人、薩摩軍側は6400余人の死者が出たそうです(ただし、この数には諸説あります)。この戦いは、「近代国家の生みの苦しみ」とも形容されており、戊辰戦争ではなく西南戦争の終結を以て「幕末」の終わりと見る人もいます。

 そして、旅のフィナーレを飾るのは、薩摩の十九代藩主によって築かれた別邸「仙巌園(せんがんえん)」です。幕末維新期、ここには藩の一大工業地帯があり、鉄から大砲、ガラス製品等、あらゆる品々が生産、開発されていました。藩が富国強兵・殖産興業を進めた「集成館事業」の拠点だったのです。
 薩摩がここまで高度な技術を持てた背景には、鎖国体制下であっても海外の知識や技術を積極的に吸収してきたことがあります。日本最南端に位置する薩摩の守備範囲はたいへん広大で、それゆえにグローバルな視点が早い段階から養われていました。園内にある「尚古集成館」の学芸員さんがこの辺りも解説してくださったのですが、これがたいへん分かりやすく、薩摩が幕末維新期に活躍できた必然性を容易に理解することが出来ました。
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 特に、反射炉の存在は、薩摩を語るうえで欠かすことはできません。これは、大砲の鋳造施設のことですが、現在は基礎部の遺構(写真上)を残すのみでした。学芸員さんの話によると、集成館の敷地内には溶鉱炉もあり、たたら製鉄ではできない良質な鉄を生産することが出来たそうです。これが、質の高い大砲を生み出す重要なポイントでした。
 園内には再現された鉄製150ポンド砲が再現されており(写真下)、強烈なインパクトを覚えました。この大砲は、68キログラム近い鉄の弾丸を約3キロメートルも飛ばす力があったようです。
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 この研修旅行に参加して、鹿児島という地が、いかに幕末維新期に大きな役割を果たしたかをたくさん学ぶことが出来ました。西郷をはじめとする傑出した人材と世界に開かれた高度なテクノロジーを持つ薩摩が、武家政権を終わらせ、近代国家を切り開く重要な力となったことを、ぜひ高知の方々にもこの地を訪れ、知ってほしいと思います。


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