学芸員エッセイ その37「近藤長次郎シンポジウムの開催」
近藤長次郎シンポジウムの開催
当館では2017年11月23日、神田外語大学准教授の町田明広氏をお呼びして、「近藤長次郎シンポジウム」を開催しました。近藤長次郎の名を皆様はご存じでしょうか?動乱の幕末、龍馬とともに薩長同盟に貢献した人物で、当館中庭にはその像があります。大河ドラマ「龍馬伝」において大泉洋さんが演じたことで、記憶に新しい方も多いかもしれません。実は、長次郎が生まれた地も、龍馬と同じ現・高知市上町であり、当館のすぐ近所には邸宅のあった跡地を示す碑が建っています。
今回、シンポジウムの開催に合わせ、高知市民図書館に保管されていた長次郎関連資料の展示会も行いました。長次郎の肖像写真や龍馬宛の書簡、そして切腹時に着用していたとされる袴の切れ端など、めったに見られない貴重な資料が並びました。シンポジウム・展示会双方でお世話になりましたすべての皆様に厚く御礼を申し上げます。
今回のエッセイでは、長次郎の激動の生涯を簡単にご紹介します。
長次郎は、天保9(1838)年3月7日、水通町(現・高知市上町)の餅菓子商「大里屋」に誕生しました。水通町は商人や職人が多く住む町で、長次郎はここで経済感覚やビジネスのノウハウを学んだと思われます。また、長次郎は子どもの頃からたいへんな学問好きで、染物屋の叔父・門田兼五郎にも師事していました。
安政2(1855)年、長次郎は兼五郎の紹介で、土佐きっての知識人で画家の河田小龍(かわだ・しょうりょう)に弟子入りします。その後、学者・甲藤市三郎、当時神田村(現・高知市神田)に住んでいた岩崎弥太郎(後の三菱財閥の創始者)にも師事し、さらなる知識を磨きました。
そして安政6(1859)年頃、藩の重役・由比猪内(ゆい・いない)に従って江戸に留学します。ここで、国際事情に詳しい学者・安積艮斎(あさか・ごんざい)の門下となりますが、父母が立て続けに亡くなったため、急遽帰国。家の跡取りを妹に任せると、翌年から再び江戸に戻り、洋学や砲術を修めました。
そして、文久2(1862)年、長次郎は、開国派の幕臣・勝海舟に入門しました。龍馬もこの年の10~12月頃に、勝の門下となっています。勝は、幕府の中でも特に進歩的な人物で、その考えは、長次郎や龍馬に大きな影響を与えました。
この頃、長次郎は、土佐藩から名字・帯刀(武士の特権)を許されています。長次郎の長年にわたる勉学が認められた証であり、商人から異例の出世と言えるでしょう。長次郎は翌年、勝の海軍塾に入り、この年に結婚しました。
しかし、元治元(1864)年、京都で幕府の警察組織・新選組と勤王志士グループが衝突する騒動(池田屋事件)が起き、これが長次郎の人生をも変えることとなりました。過激派浪士の中に元海軍塾生がいたことが発覚し、勝がその責で役職を罷免されたのです。行き場を失った長次郎たちは、勝の計らいで薩摩藩に身を寄せることになりました。
慶応元(1865)年5月頃、龍馬らは長崎で同藩庇護下の集団(いわゆる亀山社中)を結成し、薩長和解に向けて動き出しました。この頃、薩摩はすでに長州との連合を視野に入れており、長次郎たちはその実現のために東奔西走していくのです。
龍馬たちは、薩長融和のために、「長州の欲しがっている武器を薩摩名義で外国商人から買い、薩摩の欲しがっている米を長州から運ぶ」という取引を進めました。以後、この取引において薩長間のパイプ役を務めたのが、長次郎だったのです。薩摩の最高幹部・小松帯刀から名義貸しの許可を得た長州藩士の井上馨(後の初代外務大臣)らは、イギリス商人・グラバーと交渉し、大量の銃を購入することに成功しました。
これらの銃は、薩摩の船で長州へ運ばれ、長次郎はこの便に同行します。そして、この年の8月、藩主・毛利敬親(もうり・たかちか)に会い、蒸気船の購入も依頼されました。2カ月後、長次郎はグラバーと交渉し、蒸気船「ユニオン号」を薩摩名義で購入することに成功。この取引が両藩和解の力となり、翌年1月、いわゆる「薩長同盟」が結ばれたのです。(写真は、長崎のグラバー邸)
特筆すべきは、この取引において、長次郎が両藩の最高権力者から信任を得ていたことでした。その証拠に、敬親とその息子・広封(ひろあつ)から薩摩藩主・島津茂久(しまづ・もちひさ)とその父・久光に宛てた親書に「詳しくは、上杉宗次郎(長次郎の変名)に聞いてください」との記述があります。今回のシンポジウムと展示会では、この親書も写真でご紹介しました。(現物は、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」にあります)
しかし、薩長同盟が結ばれたこの月、長次郎は突然の死を迎えました。29歳という龍馬より短い人生でしたが、長次郎の果たした功績は、その後、明治維新へとつながっていくのです。
筆者は、今回のシンポジウム及び展示会開催にあたり、改めて長次郎の功績について学び、長次郎の功績はもっと評価されるべきだと感じました。来年は維新150年ですが、龍馬と同じくらいに長次郎に関する研究・情報発信活動を進めていくことが、上町に建つ博物館としての使命だと改めて思いました。長次郎に関する情報が何かありましたら、龍馬の生まれたまち記念館までご一報いただければ幸いです。