学芸員エッセイ その39「近代日本の魚類学者・田中茂穂」
近代日本の魚類学者・田中茂穂
龍馬の生まれたまち記念館では、4月14日(土)~5月27日(日)の期間、特別展「生誕140年 近代日本の魚類学者・田中茂穂展」を常設展会場にて開催します。当館の建つ現・高知市上町に生まれ、明治から昭和にかけて魚類研究で大きな功績を残した田中茂穂博士(1878~1974)に関する展示会です。今春の企画展「維新の夜明け展vol.4 明治維新150年 近代日本の出発点」と併せてご覧いただければ幸いです。
さて、皆様は「高知出身の科学者といえば?」と尋ねられたら、誰を思い浮かべるでしょうか?物理学者の寺田寅彦や植物学者の牧野富太郎を挙げる方も多いと思います。田中博士は、この寺田・牧野両博士と並び称されるほど、近代日本の自然科学界に功績を残した研究者でした。
田中博士は、明治11(1878)年8月16日、坂本龍馬の生まれた現・高知市上町で誕生します。当時の上町は、北奉公人町、本丁筋、水通町、通町、南奉公人町、築屋敷の6区に分かれており、博士はこの地で感性を育みました。なお、博士の生まれた場所ですが、『高知県人名事典』などでは、「水通町に生まれる」と書いています。しかし、「高知新聞」1952年8月17日付の本人へのインタビュー記事には、「南奉公人町に生れ七つのとき現在の水通町に移った」とありますので、おそらくこれが正解ではないでしょうか。
やがて、上街小学校(現・高知市立第四小学校=高知市上町)から高知県尋常中学校(現・追手前高校)に進んだ田中少年は、明治34(1901)年、東京帝国大学理学部の動物学科に入学しました。なお、中学時代の同級生には寺田寅彦がおり、二人は首席を争った仲だったそうです。
大学では魚類研究に打ち込み、明治37(1904)年に卒業します。しかし、その後も大学に残り、講師、助教授、教授を歴任しました(上の写真は助教授時代のもので、1928年に撮影されました)。そして、昭和14(1939)年に定年退職するまで膨大な研究に携わり、その蓄積は、「魚類分類学の開祖」とも言われるほどの成果を挙げました。研究論文は約300、著書は50冊に及び、今回の展示会では、その一部を展示いたします。国際的にも活躍し、大正2(1913)年には、『日本産魚類目録(英文)』を米国・スタンフォード大学との共著で出版しました。
戦後は、北海道に住んでいましたが、昭和27(1952)年、教え子である高知大学教授・蒲原稔治(かもはら・としじ)教授の招きで帰郷、同大学で講師も務めました。今回は、蒲原家の皆様にもご協力をいただき、ゆかりの資料を田中博士のものと一緒に展示することで、師弟の「再会」の演出も整えたいと考えています。蒲原教授は、まさに田中博士の愛弟子といえる人物で、同教授の著書『酒と魚』には、「私の一生をきめてくれたのは全く先生のお陰である」と博士への感謝の思いが書かれています。
また、博士は皇族や他分野の科学者との交流も深く、今回の企画では、それを示す資料も、いくつか展示することとなりました。その代表的なものには、生物学者でもあった昭和天皇ゆかりの羽織、植物学者・牧野富太郎博士とのツーショット写真(上の写真)などがあります。なお、高知県立文学館には、田中博士が寺田寅彦に宛てた手紙が所蔵されており、旧友である二人の交流を垣間見ることが出来ます。
ちなみに、田中博士は研究人生の中で、多くの新種も発見しているのですが、実は博士の名前から名づけられた魚も存在します。それが、写真の「タナカゲンゲ」です。(写真協力:魚津水族館)筆者は昨年、この魚を食べる機会を得ることが出来ました。タナカゲンゲは、鳥取や島根ではよく食べられており、鍋物やみそ汁にするとおいしいそうです。筆者は、東京の鳥取料理店で、この魚を鍋と唐揚げという形でいただいたのですが、上品な白身がたいへん美味でした。
田中博士は、昭和49(1974)年に96歳の天寿を全うしました。その長い生涯の中で、日本は明治から大正、そして昭和へと紆余曲折の歴史を辿ります。大久保利通暗殺事件の年に生まれ、野球の長嶋茂雄選手が引退した年に没した博士は、まさに激動した日本近現代史の目撃者でもありました。
今回の展示会が、博士の偉業を知っていただくと同時に、皆様の日本近現代史を学ぶきっかけになればと思います。ゴールデンウィークを挟んでの期間に開催しますので、ぜひ、お越しください。