学芸員エッセイ その40「京都新選組探訪」
京都新選組探訪
筆者は先日、「土方歳三子孫とめぐる新選組ゆかりの地・京都編」のツアーに参加してきました。よみうりカルチャー横浜の主催で、明治維新・戊辰戦争150年に当たって今一度、新選組と幕末史を学ぼうという趣旨のもと、企画されたイベントです。
このツアーでは、土方歳三の兄の子孫である土方愛(めぐみ)さんの案内で、京都市内に残る新選組関連の史跡を巡りました。普段は入れない場所や見逃してしまいそうな碑を新選組ファンとともに巡ることができ、たいへん充実した一日でした。今回のエッセイでは、その内容をご紹介します。
ツアーは、京都駅前から始まり、三条通河原町の池田屋跡に向かいながら、その道中の新選組関連史跡を巡るというルートで進められました。まず一行が訪れたのは、不動堂屯所跡です。新選組は、その屯所(駐在所)を4回変更していることが分かっています。不動堂の屯所は、そのうちの3回目であり、慶応3(1867)年6月からこの地に移りました。今でこそ、その痕跡はありませんが、当時は大名屋敷並みの広さがあったそうです。碑には「新選組最後の洛中屋敷跡」と刻まれています。
次に、その近くにある「伊東甲子太郎(いとう・かしたろう)殉難地」の石碑を見に行きました。ここは、新選組の参謀だった伊東甲子太郎が、慶応3年11月18日、新選組メンバーの手によって暗殺された地です。伊東は、もともと尊王攘夷論のルーツともいえる後期水戸学を学んだ筋金入りの勤王派で、その思想的相違から、当時、新選組内部に分派組織を作っていました。そして、局長・近藤勇の暗殺まで企てているとの情報を聞いた新選組本隊は、これを阻止するため、伊東らの一派を粛清したのです。これが「油小路(あぶらのこうじ)事件」です。
伊東は、この石碑が建つ付近で斬られ、絶命したと伝わっています。伊東の遺体はその後、仲間をおびき寄せるための囮に使われ、この作戦により、分派組織は壊滅しました。分派の中には、元治元(1864)年6月の「池田屋事件」で活躍した藤堂平助もいましたが、この時、伊東とともに殺されています。なお、伊東と藤堂は、龍馬暗殺事件の1カ月ほど前に、「新選組が狙っているから気を付けた方がいい。土佐藩邸に避難してはどうか」と龍馬に進言したと伝わっています。皮肉にも、龍馬暗殺の3日後、伊東と藤堂は、その新選組本隊によって暗殺されたのです。
その次に訪れた場所は、西本願寺です。有名な寺ですが、ここは元治2(1865)年3月から新選組の2回目の屯所があった場所でもありました。前年の池田屋事件の功績で、幕府からの信頼も得た新選組は、やがて大所帯となり、この地に移ってきたのです。当時、同寺は長州藩の志士たちがよく出入りしていたので、ここを屯所とすることで、彼らを牽制することも目的でした。広い敷地を持つこの寺の中で新選組が使っていたのは、太鼓楼(写真上)と北集会所で、現在は前者のみが現存しています。(北集会所の建物は、兵庫県姫路市に一部移転)
ただ、この地に引っ越してきた新選組を、寺や周辺住民は決して歓迎したわけではなかったようです。特に、寺の中で行われた砲術の訓練には、人々は大いに迷惑しました。また、隊士たちにとっても決してよい環境ではなく、病人にあふれていたと記録されています。新選組の幹部たちもそのことには頭を悩ませていたようで、副長・土方歳三は、同寺に労働環境の改善を訴えたり、幕府の医者・松本良順のアドバイス(屯所の掃除、入浴の推進、カルテの作成、養豚の奨励)を即座に実行に移したりしています。
西本願寺を見学した後は、下京区に位置する「島原」を散策します。ここは、江戸時代は花街として人気があり、新選組隊士たちもよく訪れていたそうです。その中にある高級料亭「角屋(すみや)」には、新選組がつけたといわれる刀傷が複数あり、今回は、それを示す石碑を見ることができました。文久3(1863)年には、新選組の局長・芹沢鴨が、ここで酔って暴れたうえ、7日間の営業停止を角屋に申し付けるという事件を起こしています。
なお、この屋敷は、新選組だけでなく他藩の志士たちも利用していたようです。龍馬に脱藩に決意させたと考えられる長州の志士・久坂玄瑞もここを訪れており、それを示す石碑もありました。石碑には「久坂玄瑞の密議の角屋」と刻まれており、この屋敷が勤王志士たちの話し合いの場としても利用されていたことを示しています。
次に、一行が向かったのは、新選組の最初の屯所として知られる旧・壬生(みぶ)村です。文久3(1863)年2月、京都の治安維持のために江戸で「浪士組」が結成され、彼らは同月中にこの地へと到達しました。しかし、結成者である清河八郎は勤王思想の持ち主であり、浪士たちにそのために働くように訴えます。幕府のために尽力できると期待していた近藤や土方らはこれに反発を覚え、清河の江戸帰還に従わず、京都に残ることとなりました。そして、会津藩預かりの身となり、京都の治安維持に邁進するのです。
写真の八木邸は、この京都残留組13名(芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司など)が屯所として使っていました。この頃の新選組(当時は壬生浪士組と呼ばれていました)は、芹沢と近藤の二人が隊を治めていましたが、やがて芹沢の乱行が目に余るようになります。芹沢粛清を会津藩から命じられた近藤たちは、芹沢を酔わせて寝こみを襲撃する作戦を決行し、その舞台となったのも、この八木邸でした。邸内には、その時にできたと伝わる刀傷が残っていますが、誰が付けたのかは不明だそうです。
また、新選組は、この八木邸の近くにある旧前川邸も屯所として利用していました。同邸は、現在は常時非公開となっていますが、今回のツアーでは特別に入ることが許可されました(ただし、撮影写真のインターネット掲載等は禁止だったので、本記事では公開は控えさせていただきます)。ここは、元治元年6月、新選組に捕縛された志士・古高俊太郎が拷問された場所としても知られています。古高は長州の急進派らと内通していたので、新選組は彼の口からその計画を炙り出す必要がありました。古高は、ここで逆さ吊りにされたあげく、足に五寸釘を打ち込まれ、その傷跡に熱を帯びた蝋を流し込まれるという過酷な拷問に耐え兼ね、自白したと伝えられています。その拷問の現場となった場所には、今も縄がぶら下がっており、逆さ吊りにされた古高の姿が想像されました。(ただし、縄は当時のものではありません)
その後、一行は、旧前川邸を後にして、光縁寺に向かいます。ここには、当ホームページのエッセイ(エッセイ9)でも以前紹介した新選組総長・山南敬助の墓があります。
筆者は以前、この寺を山南の命日に訪れたので、その際、墓参とともに焼香もさせていただきました。今回は、命日ではありませんでしたが、特別に焼香が許され、参加者一同は、山南と同寺に葬られている隊士たちを追悼しました。幕末期、この寺の住職は山南と親交があり、その縁で多くの隊士が供養されているとのことです。
この後、いよいよ池田屋周辺の史跡へと移動するのですが、筆者は残念ながら帰路の新幹線の都合ゆえ、その前にお別れとなりました。しかし、イベントの前日に京都入りし、池田屋周辺の史跡を訪ねていたので、それを紹介します。
池田屋事件は、言わずと知れた新選組がその名を挙げた出来事です。現在、池田屋が建っている場所には居酒屋があり、新選組コンセプトの内装や料理が堪能できます。イベント前日は、ここで土方愛さんを囲んでの食事会もあり、新選組ファン同士で交流しました。池田屋で新選組に討たれた人物の中には、龍馬と交流のあった土佐出身の志士もいるので、筆者としてはその辺り、やや複雑な感情はありました。しかし、やはり幕末史は、「幕府を倒そうとした側」だけでなく「幕府を守ろうとした側」もしっかり見なければならないので、こうした経験も重要だと思います。
池田屋は、三条大橋の近くにあり、同橋の欄干には刀傷が残っています。下の写真の赤矢印で示した部分がそれですが、池田屋事件の際につけられたものと言われています。この刀傷は、多くの人々が触ってきたようで、その研磨の影響と思われる変色が印象的でした。
土方家の方と新選組ゆかりの地を巡ることができ、筆者としても今回のイベントは、たいへん貴重な経験となりました。しかし、ただ新選組の活劇に酔いしれるだけのツアーではなかったと、理解しています。今回、案内してくださった土方愛さんは、「京都には、新選組がご迷惑をかけたり、土方歳三に粛清されたりした方々も多くおられました。今回は、そうした皆様も慰霊するつもりで、巡りたいと思います」という旨をおっしゃっていました。たしかに、幕末という激動の時代、己の信念を貫いて戦った彼らの活躍は、魅力的に映るかもしれません。しかし、その中で数えきれない尊い命が失われ、多くの庶民も巻き添えとなっています。私たちが歴史を学ぶ際は、こうした負の側面もしっかり見据えたうえで、そこから何を学ぶかという視点で、見ていかねばならないと感じたツアーでもありました。