学芸員エッセイ その45「上町・小高坂の科学者たち」
上町・小高坂の科学者たち
筆者は、今年の6月、東京の早稲田大学で講義をさせていただくこととなりました。一般社団法人「高知サマサマCCRCセンター」が主催する、「幕末明治土佐学講座」の中で、魚類学者・田中茂穂(たなか・しげほ)博士についてお話し致します。
同講座は、土佐出身の幕末~大正時代に活躍した人物を学ぶことで、その理解を深めるとともに、高知県への観光客誘致や移住促進をアピールすることも目的としています。昨年、初回として「時代は土佐の山間より」と題した10講座を実施したところ、受講者から継続を望む声が多かったため、今年も開催の運びとなりました。昨年は、坂本龍馬はじめ幕末維新期の政治史に功績を残した人々をテーマとしましたが、本年は「学問と教育を究めた土佐人」を取り上げます。詳細は、以下の広告をご覧ください。また、早稲田大学エクステンションセンターのホームページ[早稲田大学エクステンションセンターHP(クリック)]からも申し込みが可能なので、首都圏にお住まいの方は、ぜひ参加いただければ幸いです。
さて、同講座でお話する田中博士に関しては、以前、当エッセイでも紹介している[エッセイ39(クリック)]ので、ここでは省略します。なお、高知の郷土史を研究する団体「土佐史談会」の雑誌『土佐史談』の最新号と前回号にも、筆者が執筆した田中博士に関する論文が掲載されていますので、興味ある方は、ぜひご一読いただければ幸いです。
当エッセイでは、田中博士以外にも近代の科学界に功績を残した3人を紹介します。いずれも、当館周辺の上町・小高坂地区にゆかりの人物です。
一人目は、物理学者として有名な寺田寅彦(てらだ・とらひこ)です。寺田博士は、明治11(1878)年11月28日、東京に生まれました。父は土佐藩の下級武士で、同14年、現在の高知市小津町に家を購入し、家族とともに帰郷しました。この縁で寺田博士は同地で19歳まで過ごすこととなり、現在、その旧邸(復元)は「寺田寅彦記念館」となっています。
寺田博士は、江ノ口小学校から高知県尋常中学校(現・追手前高校)に進んだ後、同29年、熊本第五高等学校(現・熊本大学)に入学しました。同校で田丸卓郎から物理学、夏目漱石から英語の指導を受けた寺田博士は、同32(1899)年に東京帝国大学理科大学物理学科(現・東京大学)に進学。さらに、同36年に大学院へと進み、実験物理学を研究しました。その翌年には同大学の講師、同41(1908)年に理学博士となり、その翌年、助教授へと昇進します。そして、ドイツやフランスへの留学経験も経て、同44年に帰国した後も物理学を教え、大正5(1916)年、教授となりました。
その後、広範な研究を手がけ、数多くの論文を執筆。日常生活における物理的な出来事を科学的に分析し、法則を読み解くことを得意としており、それらを論理や数式だけでなく随筆として発表するなど、文系的感性も豊かでした。昭和元(1926)年からは同大学の地震研究所員となり、この分野でも功績を残しています。(なお、地震との関連でいえば、「天災は忘れた頃にやってくる」というフレーズが有名ですが、寺田博士はこれをストレートには言っておらず、随筆内でそうした趣旨を書いたものが、本人の言葉として広まったようです)
昨年、高知市には複合施設「オーテピア」がオープンし、その中に「高知みらい科学館」も設置されました。同時にオーテピアの前には、寺田博士の銅像も建立され、多くの人々の目に留まっています。台座には、「ねえ君 ふしぎだと思いませんか」という博士の口癖が刻まれており、まるで道行く人々に尋ねているかのようです。
「高知みらい科学館」は、物理学や生物学を総合的に学べる施設です。筆者もよく足を運びますが、ここで科学に親しんだ青少年が、やがて未来の寺田寅彦になってくれることに期待したいものです。
次に紹介する人物は、化学者の近重真澄(ちかしげ・ますみ)です。近重博士は、明治3(1870)年9月3日、上町の北奉公人町(現・高知市上町)に生まれました(ただし、生誕地に関しては異説があります)。同27(1894)年、東京帝国大学理学部の化学科を卒業した博士は、熊本第五高等学校(現・熊本大学)の教授を経て、理学博士となります。
同41(1908)年、京都帝国大学の教授に就任し、昭和2(1927)年からは同大学の化学研究所長も務めました。また、同年中に日本化学会の会長に任命され、日本における「無機化学」の理論的研究に大きく貢献しました。熊本県釜尾古墳(装飾古墳)や法隆寺壁画の色料について調査したこともあり、歴史学の発展にも貢献しています。
科学者であると同時に、書道、俳句、禅などの文化的素養も高く、多くの作品も残しています。筆者は昨年、インターネットオークションで近重博士の著書『禅学論』(写真上)を購入し、目を通してみました。同著には、禅という文化を科学と絡めた考察もあり、文系的素養も高かった近重博士の一面を垣間見ることができます。また、近重博士の書いた絵画(掛軸)を当館で展示したこともありますが、日の出に照らされた山と龍のようにうねる雲の様子を描いた構図が、シンプルながらも独特の美を形成していました。
最後に紹介する学者は、島村虎猪(しまむら・とらい)です。島村博士は、明治15(1882)年7月22日、小高坂村(現・高知市西町)に生まれました。やがて、高知県尋常中学海南学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学農科大学に入学した島村博士は、獣医学を専攻し、同41(1908)年に卒業した後も助教授などを務めました。その間に、欧米諸国に留学して家畜の病理学を修め、帰国後の大正11(1922)年から、家畜生理学の教授となりました。
その4年後、農学博士となった島村博士は、昭和18(1943)年に退官するまで、家畜生理学の基礎を作りました。その例としては、馬の軟骨症の予防治療や家畜の繁殖障害に対するホルモン療法などがあります。農学者・鈴木梅太郎が脚気予防に効果があるオリザニン(ビタミンB1)を発見した時も、その共同研究に加わっています。
筆者は、以前、インターネットオークションで島村博士の著書『島村家畜生理学』(写真上)を購入したことがあります。昭和31(1956)年に発行された改訂版(第1版は大正15〈1926〉年発行)で、家畜生理学に関する島村の研究成果が網羅されており、正直、専門知識のない筆者にとっては難解な内容でした。しかし、獣医学を志す者にとっては、よきテキストとなったことでしょう。
近世から近代へと大きく舵を切った幕末明治という時代、「世界に開かれた国」となった日本には、これまで知る由もなかった知識や技術が流れ込んできました。そうした膨大な情報を学び、分析し、発展させてきた人々こそ、日本近代史に名を残した科学者や技術者だったのです。日本に理論体系が確立していない学問に挑戦しようと思えば、まずは進んだ海外の知識を得るため、英語等の外国語が必須です。さらに、西洋式の数学もマスターしておかなければ、物理や化学を理解することは不可能でしょう(前述の田中博士は、「生物学は、数学、物理学、化学の素養があって、初めてできる学問」と評しています)。彼らは、日本近代科学の黎明期において、すべてを一からスタートし、現代につながる理論体系を作ったのです。
こうした科学者たちの活躍は、各々の学術界の間では語られていますが、一般にはあまり知られていません。龍馬の生まれたまち記念館では、今年の9月2日から「上町・小高坂の科学者たち」というテーマで、コーナー展を開催する予定です。上記の人物だけでなく、科学に関わった人物をできるだけ多く紹介しようと思いますので、何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、教示いただければ幸いです。