学芸員エッセイ その46「土方歳三没後150年」

土方歳三没後150年

 本年は、新選組副長・土方歳三が亡くなって150年の節目です。動乱の幕末、治安維持組織を率いて京都で活躍し、最後まで幕府への忠義を忘れなかった土方は、明治2(1869)年5月11日、戊辰戦争の最終局面において35歳の短い生涯を終えました。
 筆者は土方の面影を追い、この命日を挟んだ3日間、東京都日野市を訪れました。同市は土方の故郷であり、毎年、その命日に近い土日には「ひの新選組まつり」が行われています。今年は没後150年とあって、日野駅はじめ市内各所に土方の写真が掲げられ、「ひの新選組まつり」を中心に関連イベントも多数開かれていました。
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 3日間の初日、最初に訪れた場所は、「日野市立新選組のふるさと歴史館」です。ここは、新選組関連の資料を多数所蔵している博物館で、6月30日まで企画展「土方歳三 ~史料から見たその実像~」が開催されています。土方の人物や功績を当時の史料から紐解く内容となっており、前々からぜひ見に行きたいと考えていました。
 展示は、土方が生まれて没するまでのことを時系列的に紹介しており、初めて見る史料も多々ありました。土方の写真や肖像画は、晩年や死後のものしかなく、それまでのことは文字媒体等で残された記録から、その姿を想像していくしかありません。しかし、こうして生涯を通じた一次史料に触れることで、土方のそれぞれの年代における姿がイメージできるように感じました。
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 この企画展で最も印象に残った資料は、土方が書いた漢詩です。土方は、もともと武士ではなく農民の出身なので、高度な教養が求められる漢詩を書くイメージはありませんでした。しかし、この企画展では、当時の豪農層には優れた文化人ネットワークが形成されており、土方家もまた親戚筋からその影響を受けていたことが紹介されており、「文化人・土方歳三」としての側面を伺うことができます。特に、土方家の姻戚に当たる村医者・本田覚庵との結びつきは強く、企画展では、土方が大病に冒されたことや土方が新選組局長・近藤勇とともに本田家を訪れたことを記録した覚庵の日記が公開されていました。なお、当館の夏の企画展「群像から見る幕末史vol.2 龍馬と会津藩・新選組 それぞれが貫いた『誠』」では、覚庵の息子・本田退庵の漢詩を展示する予定です。
 新選組のふるさと歴史館の企画展では、他にも、土方が新選組隊士たちのために労働条件の改善を訴えたことが分かる記録や大坂の豪商から借金をした際の証文など、時代の激流の中で生きた人々の息遣いが分かる史料が多く展示されています。複製もいくつかありますが、これほど多くの土方関連の史料が集まる機会もなかなかないでしょう。ぜひ、多くの方に足を運んでいただきたいと思いました。
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 2日目は、同市にある「土方歳三資料館」を訪れました。ここは、土方の育った家があった場所に立っている(生家はもう少し離れた場所にありました)博物館で、貴重な史料が多く所蔵、公開されています。この日は、土方の命日とあって朝から長蛇の列ができ、9時のオープンと同時に、たちまち館内は満員状態となりました。(館内の撮影は禁止。写真上は、同館の庭にある土方の胸像)
 資料館には、土方が池田屋事件で使用した鎖帷子や若い頃に行商用として使っていた薬箱(土方家では家伝の薬品「石田散薬」を作り、販売していた)などが並び、その激動の人生に思いを馳せることができます。中でも多くの来館者の注目を集めていたのが、愛刀「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」の展示でした。この刀は、晩年の土方が持っていたもので、戦死した箱館から遺品として故郷に届きました。実際に愛用していたのは1~2年程度と考えられますが、「実戦刀」として使われていた痕跡が各所に残り、特に柄巻(つかまき)部分には激しい摩耗の痕が認められます。これは、土方が採り入れていた「鍔側に寄せて握ることでコンパクトかつ俊敏な振りを実現し、刀を固定させるように親指と人差し指に力を込めることで、正確な突きを可能とする」戦法を物語っているとのことです。
 当日は、こうした資料を同館長の土方愛(めぐみ)さんが解説してくださり、多くの来館者はその興味深い内容に耳を傾けていました。土方館長は、土方歳三の兄の子孫に当たる方で、テレビ出演や講演活動などでご活躍されています。7月には、龍馬の生まれたまち記念館に土方館長をお呼びするイベントも予定しておりますので、当ホームページをご覧の皆様にも、ぜひ、お越しいただければ幸いです。(受付開始日時を含めた詳細は、後日発表)
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 資料館を堪能した後は、その近くにある石田寺(せきでんじ)の「第44回土方歳三忌」に参加しました。同寺は、土方の墓があり、この法要は毎年多くの新選組ファンでにぎわいます。土方の遺体がどこに埋葬されたのかに関しては定かではありませんが、土方家の菩提寺は、同市内の高幡山金剛寺(高幡不動)にあり、彼の位牌もそこに納められています。石田寺は金剛寺の末寺であり、この場所に土方家の墓所が建てられているのです。
 この日、土方の墓には多くの花が手向けられ、法要は厳かに行われました。会場には、多くの関係者や研究者の方も見えられ、幕末動乱の中で散った若き命に対し、哀悼の意をささげていました。自身の追悼を通じて、全国の方々に交流の輪を広がっている様子に、土方も喜んでいるかもしれません。

 最終日は、高幡山金剛寺と日野駅周辺で開催された「ひの新選組まつり」に参加しました。この日、会場各地は、新選組の隊服を着た人々で浅葱色に染まり、多くの模擬店が並び、パフォーマンスが実施されました。特に、新選組や幕末の人物に扮した人々が高幡不動尊への参道を練り歩く「隊士パレード」は圧巻で、隊士たちの魂が現代によみがえったかの如くの迫力でした。パレードではありますが、ただ歩くだけでなく、時折、「旧幕府軍VS新政府軍」の寸劇も披露されるなど、臨場感を以て幕末の激動を模擬体験することもできました。(写真下は、パレード参加者や沿道のお客様のプライバシーを守るため、顔を隠しています)
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 そして、パレードの後は、高幡山金剛寺で開催された殺陣のショーを観覧しました。実は、このショーに高知ゆかりの俳優さんが参加されていたのです。その俳優こそ、今年3月まで高知県内外で「土佐おもてなし海援隊」及び「土佐おもてなし勤王党」の坂本龍馬役として活躍していた若林秀男さん(写真下)です。当館で開催したイベントでも「龍馬として」参加いただいたことが2回ありますが、おもてなし海援隊が活動終了した後は、東京で殺陣の勉強をされています。そして、上京して初めての仕事が、この「ひの新選組まつり」だったのです。
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 若林さんが所属する殺陣グループ「士魂流水(しこんりゅうすい)」は、各地のイベントなどでパフォーマンスを繰り広げており、この日は土方歳三の銅像の前で演武が行われました。おもてなし海援隊及び勤王党時代の若林さんも、刀を使った演技を披露していましたが、今回は台詞や歌といった演劇的要素のない、アクションを主体とした公演です。刃を受ければ絶命するという設定ですから、文字通り「真剣勝負」の様相で、振り下ろす刀やそれに対する回避や防御、そして斬る・斬られるの動作の一つ一つが計算されているように思いました。一つとして「斬られるのを待っていた」と感じる場面はなく、当日を迎えるまで、「士魂流水」の皆様は相当に練習をされたことでしょう。
 若林さんは、龍馬を演じていた時は笑顔が似合う好青年といったイメージでしたが、今回のショーでは終始真剣な表情とレベルの高いアクションで、新たな魅力を研ぎ澄ませていました。高知から上京して新天地を切り開きつつある若林さんを、今後、さらに応援していきたいと思います。
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 その後、日野駅前に移動し、再び隊士パレードを見る予定でしたが、飛行機の関係上、ここで帰路に就くことにしました。土方没後150年の今年は、戊辰戦争終結150年の節目でもあります。戊辰戦争や明治維新は、「古い旧幕府勢力を進歩的な新政府が倒した」と理解されがちな部分がありますが、勝海舟や永井尚志(ながい・なおむね)のように江戸幕府にも開明的な人物は多くおり、15代将軍・徳川慶喜は、大政奉還後の政治ヴィジョンの中に三権分立も加味していました。決して旧幕府勢力は「封建的」一辺倒ではなく、新しい時代に通用する知識や技術を持っていた人々も大勢いたのです。
 前述しましたが、当館では今夏、企画展「群像から見る幕末史vol.2 龍馬と会津藩・新選組 それぞれが貫いた『誠』」を開催致します。会津藩と新選組を龍馬や土佐藩関係者と関連付けながら紹介する内容ですが、できるだけ英雄や勝敗で語る歴史観を廃し、幕末という複雑な政局の中で彼らをどう位置づけるかという観点から企画する予定です。詳細は追って告知いたしますので、ぜひ、楽しみにしていただければ幸いです。


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