学芸員エッセイ その47「会津藩・新選組関連資料の紹介」
会津藩・新選組関連資料の紹介
龍馬の生まれたまち記念館では、現在、企画展「群像から見る幕末史vol.2 龍馬と会津藩・新選組 それぞれが貫いた『誠』」を開催中です(9月1日まで)。今回は、坂本龍馬、会津藩、新選組、そして土佐藩という四者の視点から複雑な幕末政局を俯瞰し、彼らをその中でどう位置付けるかという視点で解説パネルを作りました。
ここでは、企画展で公開している資料のうち、3点を紹介します。いずれも、幕末動乱を感じることができる貴重なものなので、ぜひ、会場で現物をご覧ください。
最初に紹介する資料は、『太政官日誌』です。これは、慶応4(1868)年から明治10(1877)年まで発行されていた明治新政府の機関誌で、旧幕府勢力を擁護するメディアに対抗して、同政府の方針を人々に広報する目的で作られました。明治元年に178冊が刊行されており、この頃の時勢を研究するに当たっての基礎資料とも言えます。
本展では、戊辰戦争の際、①捕縛した新選組局長・近藤勇を刑場へ連行、②処刑した近藤をさらし首にした旨が書かれているページを紹介しています。①では、近藤を「賊長」、彰義隊(上野戦争で戦った旧幕府軍)を「賊兵」と表現しており、旧幕府側をあくまで悪役にしたい新政府の意図が垣間見られます。②に至っては、近藤に対し「此モノ兇悪之罪迹アマタ有之上~」と、罪人同然のことが記されており、そのあまりの酷評ぶりに、読んでいて旧幕府勢力に対する同情の念すら湧いてきました。
この頃の歴史的背景を説明しますと、慶応3(1867)年12月、薩摩藩率いる軍勢が京都御所を占領し、新政府の発足を宣言したことに端を発します。翌年1月、新政府に反発した旧幕府勢力が大坂から京都へと軍を進め、同地の鳥羽と伏見で同時多発的に戦争が勃発しました。この「鳥羽・伏見の戦い」は新政府軍の勝利に終わるのですが、旧幕府軍に与していた会津・桑名両藩及び新選組らは、戦争中に江戸へと脱出した徳川慶喜に従い戦地を離れることとなります。この戦いの後、新政府軍は旧幕府の残存勢力を追い詰めるべく、戦局を東へと拡大していきました。
江戸へと帰った慶喜は、同年2月、謹慎することで新政府への恭順の姿勢を見せました。しかし、新政府側は進軍の手を止めず、江戸に近い交通の要所である甲州(現・山梨県)を目指します。これに危機感を覚えた近藤は、新選組を甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改名し、江戸から同地に向けて進軍しました。しかし、土佐藩の板垣退助率いる迅衝隊(じんしょうたい)が彼らより早く甲州城を占拠したことで、先手を打たれる形となり、ここで両者は激突します。(甲州勝沼の戦い)
この戦いも、鳥羽・伏見に続いて新政府軍の勝利となり、甲陽鎮撫隊は敗走を余儀なくされました。江戸に戻った近藤らは人材募集によって勢力を回復し、旧幕府軍の拠点・会津を目指します。しかし、その道中の流山(現・千葉県流山市)で新政府軍に包囲されてしまいました。この時、近藤は大久保剛、副長・土方歳三は内藤隼人と名を変えていたため、新政府軍も彼らが新選組幹部であるとの確証はなかったようです。
この事態に対し、近藤は切腹を覚悟しましたが、土方は再起の可能性を賭けて出頭を勧めました。そして、土方は江戸に戻り、幕臣・勝海舟に会うなどして、近藤の助命嘆願に奔走します。近藤は、この時、「大久保大和」の名で新政府軍の取り調べを受け、自身の素性を隠し続けていましたが、同軍の中に高台寺党(新選組の分派組織。近藤らと対立した)の残党がいたことが災いし、正体はついに暴かれたのです。
近藤に対し、名誉の切腹ではなく罪人としての処刑を強く主張した人物は、新政府軍に従軍していた土佐藩の安岡良亮(やすおか・りょうすけ)と谷干城(たに・たてき)でした。谷は龍馬暗殺事件の現場にかけつけた人物でもあり、近藤を「龍馬のかたき」と思っていたようです。近藤は板橋(現・東京都板橋区)へと連行され、慶応4(1868)年4月25日、ここで斬首されました。
次に紹介する資料は、近藤勇が描かれたメンコです。昭和期に製作されたと思われますが、作者などの詳細は不明です。この中に描かれている近藤の顔はたいへん愛嬌があり、可愛さすら感じないでしょうか? このメンコシリーズは、他にも、国定忠治(江戸時代後期の侠客)、後藤又兵衛(戦国武将)、弁慶、ヤマトタケルのイラストのものがあります。
右上にローマ字で読み方が書かれていますが、「KONDO ISAMI」ではなく「KONDO ISAMU」となっているのは誤記でしょうか? 左右に描かれている手の模様と「旦那」の表記は、このメンコがじゃんけんゲームの機能も兼ね備えていることを示しています。(「旦那」は、「狐拳」というじゃんけんの一種。「鉄砲」「庄屋」「旦那」「狐」などの要素で勝敗を競う)
新選組は、戦前から映画などのフィクション作品で何度か描かれていましたが、その際には、ヒーローにも悪役にも描かれてきました。また、土方歳三や沖田総司らが本格的な人気を誇ってきたのは1960年代頃で、それまでの新選組作品は、近藤がメインでした。このメンコは、近藤が大勢の人々に愛されてきたことを示す資料とも言えるかもしれません。
最後に、会津藩の少年部隊「白虎隊」関連の資料を紹介します。土佐出身の詩人・大町桂月(おおまちけいげつ、1869〜1925)が書いた漢詩で、白虎隊が集団自決したことで知られる飯森山(福島県会津若松市)で書いたものです。今回、高知県内の個人の方から借りることができました。
解読すると以下のようになります。
一隊少年餘熱血慨然瀝尽国家
難当時何可問順逆正氣長留
飯盛山 飯盛山之作 桂月
「熱血みなぎる一隊の少年たちが、国家の難に奮い立った。当時のことを考えると、誰がその是非を問うことができようか。少年たちの正気は、飯盛山に長く留まっている」と訳せるでしょうか? 若くして戦争の犠牲となった白虎隊士たちに対する大町の思いが伝わってくるようです。
白虎隊の集団自決は会津戦争の悲劇として有名ですが、通説では、「隊士たちは、城下の火災を落城と誤解し、その絶望から自決した」と語られています。しかし、『白虎隊顛末略記』という史料によれば、城がまだ攻め落とされていなかったことは認識していたらしく、捕虜になるなら自害の道を選んだ末の行動であったと書かれています。いずれにせよ、前途有望な少年たちが戦場で殺し殺される状況に身を置かねばならなかった悲劇は、二度と繰り返してはいけない歴史の過ちであり、教訓であるといえるでしょう。
今回の企画展は、龍馬や新選組を過度に英雄視する意図はなく、また薩長土と会津間における勝敗や加・被害をことさらに強調する歴史観に立つつもりもありません。しかし、「わずか150年前の日本に確かに存在した動乱・混迷の時代から、現代の私たちは何を学ぶべきか」ということを今一度、一人一人の思いで考えていただければ幸いです。