学芸員エッセイ その49「福井・富山・京都の幕末史・自然史探訪《後編》」

福井・富山・京都の幕末史・自然史探訪《後編》

 筆者は、イベントで講師を務めるため、9月に富山県滑川市を訪れました。前回のエッセイでは、その際に訪れた北陸地方の幕末史及び自然史のスポットについて紹介しました。今回は、出張の帰り道に寄った京都に関する記事をレポートします。
霊山歴史館企画展

 出張の三日目は、富山から高知に帰る便を利用して、京都市にある霊山歴史館を訪ねました。9月29日まで開催していた特別展「激闘!!新選組」を見ることが目的です。同館は、幕末・明治維新史の資料が充実しており、筆者も京都を訪れる際にはできるだけ寄るようにしています。同館の近くには龍馬の墓(写真下)もあり、そのお参りもしてきました。
龍馬と中岡の墓

 特別展では、新選組に関する貴重な資料がたくさん並んでおり、初めて見るものもいくつかありました(撮影は禁止だったので、ここでの写真掲載は控えます)。順路を進むと、まず、新選組副長・土方歳三の愛刀「大和守源秀国(やまとのかみ みなもとのひでくに)」が、来館者を出迎えてくれます。大和守源秀国は、会津藩お抱えの刀工として知られ、新選組隊士の刀も数多く作っていました。土方はこの刀を愛用し、戊辰戦争でも使用していたと思われます。同館の学芸員さんの話によると、「この刀は、刀身より鞘の方がやや長い作りとなっている。また、柄(刀を握る所)を差し込む側から見ると、刀身が通常よりやや曲がっていることが分かり、それは実戦で使われていたことを物語っている」とのことでした。
 また、その隣には新選組局長・近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳(あしゅう きっかわろくろう みなもとのすけよし)」も、展示されていました。これは、若松市(現・会津若松市)の第9代市長・松江豊寿(1872~1956)がある寺院で見つけ譲り受けたもので、その伝来覚書には、「近藤の首が京都にさらされた後、彼の下僕が、首をこの刀とともに持って会津に走り、その地に葬った」という趣旨が記されていました。近藤の首がどこに埋葬されたのかに関しては京都や岡崎など諸説ありますが、この記述は会津説を補強する資料にもなるとのことです。ただし、会津のどこに埋葬されたかに関しては、明確な手掛かりはないとのことでした。(下の写真は、東京都板橋区にある「近藤勇埋葬当初の墓石」。処刑された後、近藤の胴体はここに埋葬されたと伝わる)
近藤勇埋葬当初の墓石

 また、新選組隊士・島田魁(しまだ・かい)の遺品資料が充実していたのも、同展の特徴でした。島田は、新選組の中でも大柄で腕力の強い人物として伝わっており、幕府が滅んだ後も明治33(1900)年まで生き、かつての仲間たちの慰霊や顕彰活動にも尽力しています。今回展示されていた島田の遺品は新選組関連のもので、それらは激動の時代の中で生きた彼らの姿を今に伝えていました。
 そうした遺品の一つに「新選組隊士名簿」があります。これは、明治2(1869)年に島田が書いたもので、近藤や土方など、当時在籍していたメンバーの名前が列記されています。面白いのは、島田の名前の箇所に「明らかに別人の名前を削って、その上に自身の名前を書いた」痕跡があることです。そして、新選組五番隊組頭であった武田観柳斎の箇所にも同様の痕があります。これは、どうやら「何者かが、島田の名前を武田のものと入れ替えた」ようです。なぜ、このような細工をしたのかは不明ですが、武田が新選組を脱退後、倒幕運動に与したため暗殺されたことと何か関係があるのでしょうか?
 さらに、島田が戊辰戦争中に自らの身体に巻いていた大幟(おおのぼり)の展示もありました。実は、この資料は昨年、高知県立高知城歴史博物館の企画展で公開されており、筆者にとっては1年ぶりの「再会」でした。大きく「東照大権現(徳川家康のこと)」と書かれたこの大幟の表面には、血液や硝煙の痕と思われるシミが確認されており、戦争の悲惨さを物語っています。高知城歴史博物館の特別企画展「明治元年の日本と土佐 戊辰戦争 それぞれの信義」で展示されていた際にはその「大きさ」に強い印象を受けた同資料ですが、今回は学芸員さんによる解説付きで見学できたので、たいへん有意義でした。(下の写真は同企画展の図録です。この大幟も掲載されています)
企画展図録

他にも、展示資料には、以下のようなものがありました。

①幕臣・榎本武揚による「ないない節」の掛け軸
 箱館戦争終結後に捕縛されていた明治2年、東京の獄中で書いた作品です。「鍋島さまにはしまりがない」など、「〇〇は△△がない」というフレーズを並べており、実直なイメージのある榎本の意外なユーモアセンスを感じることができます。

②新選組隊士の和歌集
 箱館戦争に従軍した隊士たちの和歌をまとめ、記録した冊子です。この中に「鉾(ほこ)とりて 月見るごとに おもふ哉(かな) あすはかばねの 上に照(てる)かと」という作品がありますが、これが土方の「絶句」と思われます。土方の辞世の句としては、「たとえ身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらん」が有名ですが、これは故郷に送ったものであり、時系列的には「鉾とりて~」のほうが遅く、戦死の前日に書いた可能性が高いそうです。

③勝海舟の自画賛
 万延元(1860)年、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府から派遣された使節がサンフランシスコに入港しました。これに同行していた幕臣・勝海舟は、その際に漢詩を詠み、帰国後に絵入りの作品を作りました。船(咸臨丸)の姿とともに、漢詩が書かれており、異国の風景を表現しています。漢詩は、「視界の先には波が白くたち、もやの立ち込めた水面に咸臨丸が停泊している。はるか先に月が見えるが、故郷の山の空には似ていない」という意味のようです。

薩長同盟終結地

 霊山歴史館を見学した後は、新選組で知られる池田屋跡に建つ「池田屋 はなの舞」で食事をし、その後、鞍馬口にある「薩長同盟締結地(近衛家別邸・御花畑御屋敷跡)」の碑を見に行きました。ここは、幕末の大きなターニングポイントである「薩長同盟(薩長連合)」が締結された場所の有力地です。「有力地」というのは、同盟締結の場所が京都薩摩藩邸説と同藩家老・小松帯刀邸説があり、近年は後者が有力となりつつあることを意味します。以前は前者と考えられており、実際に同盟締結に向けての話し合いは藩邸で行われていましたが、やがて場所を小松邸に移動し、ここで締結をしたという流れです。この邸宅は、薩摩藩との関係が深い公家・近衛家の別邸「御花畑屋敷」を小松が住居として利用していたもので、約6000平方メートルにわたる広大な敷地だったようです。
 薩長同盟は、「龍馬の功績」で「倒幕のための軍事同盟」と語られることが多いのですが、このプロジェクトの主体者はあくまで薩摩藩であり、また同盟の成立時点では両藩の対幕府に関する認識には温度差がありました。当時、長州藩は幕府から征討される立場だったので、それに対する抗戦姿勢を明確にしていましたが、薩摩藩は「敵はあくまで京都の政治を握る一会桑勢力(一橋徳川家、会津藩、桑名藩)であり、幕府ではない。幕府に対しては、『対抗』姿勢であり、戦って幕府を倒すことまでは考えていない」という方向性だったようです。しかし、いずれにせよこの同盟が幕府を倒し、明治新政府を樹立させる布石となったことは間違いなく、その歴史の転換点がここで行われました。

 今回の北陸・京都に至る出張は、幕末史・自然史を勉強するよい機会ともなりました。それぞれの博物館施設等で応対してくださいました関係者の皆様に、心より御礼を申し上げます。


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