学芸員エッセイ その50「琴平と幕末史《前編》」

琴平と幕末史《前編》

 龍馬の生まれたまち記念館では、現在、コーナー展「龍馬の讃岐から阿波へかけての軌跡」を開催中です。昨年開催した「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」の続編企画との位置づけであり、高知市在住の歴史研究者・春野公麻呂さんの調査結果に基づいて構成しました。香川・徳島両県に残る坂本龍馬やその関連人物ゆかりの史跡や伝承地を紹介する内容であり、両県から輩出された勤王活動家3人の書作品等も展示しています。4月17日(金)まで開催していますので、ぜひご覧ください。
龍馬の讃岐から阿波へかけての軌跡

 今回のエッセイでは、この展示会でも取り上げている香川県仲多度郡琴平町の幕末関連史跡を紹介します。「こんぴらさん」こと金刀比羅宮(ことひらぐう、写真下)があるこの町は、毎年国内外から多くの参拝客や観光客でにぎわうことで有名ですが、幕末期は勤王活動が盛んな地でした。ここには、日柳燕石(くさなぎ・えんせき)美馬君田(みま・くんでん)という勤王活動家がおり、長州藩士・高杉晋作をはじめ多くの志士たちが、彼らを頼りました。龍馬がここを訪れたかに関しては、「伝承」の域を出ませんが、文久2(1862)年2月、土佐勤王党の密命を帯びた長州行きの帰路に立ち寄った可能性があるそうです。龍馬はこの時、燕石に活動資金の提供を求めたのではないかと考えられます。
金刀比羅宮

 燕石は、文化14(1817)年3月、榎井村(現・琴平町榎井)に生まれました。幼少期から学問を修め、21歳で侠客の世界へ進んだ燕石は、以後、勤王思想を同じくする志士たちと交流し、その援助を行います。しかし、慶応元(1865)年、高杉晋作を助けたことで佐幕派の高松藩に捕縛され、禁固刑となりました。その3年後、釈放へと至るものの、同年に勃発した戊辰戦争に従軍し、越後柏崎(現・新潟県柏崎市)で病死しました。
 高杉らを匿った燕石の邸宅は「呑象楼(どんぞうろう)」という名前で、今も同地に建っています(写真下)。筆者は昨年、2度訪れたのですが、館内には燕石の書作品や肖像画、愛用の枕などの多くの関連資料が並び、その貴重なラインナップに驚きました。ただし、現在の呑象楼は、昭和29(1954)年に現在の場所へ移築されたもので、その際に改修工事もしたため、建物自体は文化財指定の対象外となっています。しかし、その内装には「志士たちを匿うに当たっての仕掛け(回転扉や抜け穴など)」の数々が再現されており、幕末の緊迫した雰囲気を感じることができるでしょう。なお、移築前の呑象楼は、そこから300メートルほど西にあり、今は一本の石碑がそれを物語っています。
呑象楼

 慶応元年5月、高杉はこの地に逃亡してきました。長府藩(長州藩の支藩)との土地交換問題でもめ、同藩関係者から命を狙われるようになったことが原因です。また、同年1月にクーデターを起こし、長州の藩論を反幕府に変えた高杉は、国政レベルでも「お尋ね者」でした。
 燕石は、知人の伝手も使って、高杉を呑象楼はじめ琴平各地に匿いました。そして、同年閏5月、高杉を伊予方面に逃がすことに成功したのです。潜伏先には、高松藩の役人が何度か踏み込みましたが、上記の「からくり仕掛け」もあって、全て逃れることができたといわれています。
丸尾本店

 その高杉の潜伏先の一つが、呑象楼の近くにある酒造商「新吉田屋」です。ここの主人・長谷川佐太郎は、燕石の幼馴染でもあり、強い勤王思想を持っていました。同家の離れの茶室を高杉に提供した長谷川は、役人が踏み込んできたら逃げられるように、家の各所に仕掛けを用意していたそうです。例えば、客間にある床の間(とこのま)にはからくり通路があり、2~3人が入れる部屋がありました。また、長谷川が使っていた居間の天井裏にも縄梯子があり、数人が隠れられる構造となっていたようです。
 さらに、長谷川の外出中に役人が新吉田屋に踏み込んだ際、高杉が酒樽の中に潜んで難を逃れたこともありました。この時、役人に対峙したのは、長谷川の妻・田鶴子でした。田鶴子は、尋問に対して口を割らず、激高した役人に髪の毛を引っ張られても、黙秘を貫いたといわれています。
 維新後、長谷川は満濃池の整備事業で私財を使い果たし、酒造の権利は、番頭であった丸尾忠太に譲られました。現在の屋号は「丸尾本店」となっており、佐太郎の精神を受け継いで、おいしい酒を造り続けています。丸尾本店には、「燕石」という銘柄の酒もあり、筆者は先日、通販で取り寄せてこれを飲んだところ、たいへん美味でした。なお、「呑象楼」の名前の由来は、この建物の2階西側の窓から酒を呑むと、象頭山(ぞうずざん、金刀比羅宮のある山)が盃に浮かび上がったことと伝わっています。
日柳燕石像

 呑象楼の外には、燕石の胸像があり、来館者を迎えてくれます。遠くから見ると、侠客ということもあってやや鋭い表情に見えますが、近づいてみると、その中にも優し気な雰囲気や知性を感じることができるでしょう。この像は、香川県出身の彫刻家・小倉右一郎氏(1881~1963)が昭和3(1928)年、第9回帝国美術院展覧会(帝展)に出品したもので、同氏の没後、遺族から四国先賢顕彰会に寄贈されたものです。
 建物の中には、燕石とともに勤王志士たちを支援した美馬君田の胸像があり、その書作品も展示されていました。君田は、前述の通り、燕石と並ぶ琴平の勤王家ですが、出身は阿波の美馬重清村(現・徳島県美馬市)です。若くして仏門に入り、高野山で修行した君田は、天保4(1833)年、地元・願勝寺の住職となりました。宗教者であると同時に儒学や漢詩などに精通した知識人としての側面も持ち、寺では私塾を開いて多くの門弟を育てていたようです。しかし、天保14年に住職を弟子に譲って隠居し、以後は、琴平に移住して燕石の影響を強く受けました。「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」といわれ、住職時代から知見に富んでいた君田は、琴平の勤王活動においてブレーン的役割を果たしたようです。
美馬君田像

 安政6(1859)年から、現在の琴平町文化会館付近に居を構えた君田は、自身の知見を活かし、ここで私塾を開きました。門下は80人ほどいたと伝わっています。前述の高杉逃亡の際にも協力し、これを成功に導く一翼を担いましたが、その罪で高松藩に捕縛され、燕石とともに同4年まで投獄となりました。釈放後は、教育者としての道を歩み、小松学校(旧琴平小学校の前身)の初代校長となり、明治7(1870)年、63歳の生涯を終えました。

 次回のエッセイでは、金刀比羅宮とその周辺にある史跡についてご紹介します。

《参考資料》『大回遊!四国龍馬街道280キロ』(著:春野公麻呂)、『讃岐人物風景〈8〉』(編:四国新聞社)、『徳島先賢伝』(著:藤井喬)


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