学芸員エッセイ その51「琴平と幕末史《後編》」

琴平と幕末史《後編》

龍馬の讃岐から阿波へかけての軌跡

 前回のエッセイでもお伝えしましたが、龍馬の生まれたまち記念館では現在、コーナー展「龍馬の讃岐から阿波へかけての軌跡」を開催中です。高知市在住の歴史研究者・春野公麻呂さんの調査結果に基づいて構成しており、香川・徳島両県に残る坂本龍馬とその関連人物ゆかりの史跡や伝承地を紹介する内容です。4月17日(金)まで開催中なので、ぜひお越しください。

 前回のエッセイでは、この展示会でも取り上げている香川県仲多度郡琴平町榎井周辺の幕末関連史跡を紹介しました。今回は、同町内の「こんぴらさん」こと金刀比羅宮(ことひらぐう)とその近くにある史跡についてご紹介します。
金刀比羅宮版画

 今回のコーナー展では、明治12(1879)年に発行された金刀比羅宮の全景を示す版画「讃岐国金刀比羅山図」(写真上)を展示しています。鮮やかな色彩と細かく描写された表現力を堪能できる作品で、当時、参拝者はこれを手に琴平を訪れたのかもしれません。金刀比羅宮が建つ象頭山(ぞうずさん)のふもとに広がる街の描写も描かれており、大勢の人で今なお賑わう琴平の息遣いが伝わってくるようです。
 なお、「象頭山」の由来ですが、山の形が象の頭のように見えることから名付けられたそうです。多摩動物公園(東京都日野市)で撮影したアジアゾウと並べてみましたが、似ているでしょうか?(写真下)
象頭山と象

 金刀比羅宮は、長い石段が続くことで知られており、その628段目には「旭社」と呼ばれる建物があります。この社殿は、重要文化財に指定されている銅瓦葺の二層入母屋で、天保8(1837)年に建てられました。「讃岐国金刀比羅山図」では、「アサヒ社」と書かれています。
 この旭社の周辺には、各地の奉納者の名を刻んだ灯籠や玉垣(神域を囲む垣)がたくさんあり、それぞれの地域の人々が持つ信仰心を垣間見ることができます。そして、その中には、龍馬の生まれた坂本家の本家に当たる豪商「才谷屋」の字が刻まれていることをご存知でしょうか? 筆者は、昨年の春に金刀比羅宮を訪れた際、そのことに対する予備知識がないままこの文字を見つけたので、たいへん驚きました。
土佐関係者の灯籠

 それが上の写真です。「土州」(土佐国のこと)と刻まれた大きな灯籠の中に奉納者の名が刻まれており、そこに「才谷屋助十郎」の名が存在します。助十郎は、才谷屋の番頭だった人物で、同家から暖簾分けした店舗を経営していました。これと同じく助十郎の名が確認できる灯籠は、高知市内の薫的神社にもあり、こちらは嘉永3(1850)年に建てられています。(金刀比羅宮のものは、弘化2〈1845〉年の寄進)
 さらに、金刀比羅宮から少し離れた仲多度郡まんのう町佐文には、小規模な灯籠が並ぶ場所があります。金刀比羅宮の裏参道に当たるこの地点にも、土佐関係者が寄進したものが多々あり、龍馬が生まれた上町に所属する「通町(とおりちょう)」の名も見つけました。ここの灯籠群からは、安芸や須崎、赤岡など、高知の幅広い範囲の地名が刻まれており、「海の神様」を祀る金刀比羅宮に対する土佐の人々の信仰心を今に伝えています。
牛屋口の龍馬像

 そして、この灯籠が並ぶ「牛屋口」には、龍馬の銅像が立っています。前傾姿勢で歩く「旅姿」を表現しているこの像は、平成元(1989)年、地元の交通会社が設置したもので、龍馬が丸亀藩(現・香川県丸亀市)にある剣術道場に立ち寄った際、この街道を通過したのではないかという推定のもとで建てられました。
 しかし、春野公麻呂さんの見解によれば、龍馬はこの道を通っていないようです。当時、土佐から丸亀に行こうとすれば、伊予東部の川之江(現・愛媛県川之江市)に出て、そこから瀬戸内海沿いに伸びる「讃岐街道」を通るのが一般的でした。讃岐街道は、江戸時代中期から幕末にかけて土佐藩の参勤交代ルートとしても使われており、龍馬も同様のルートを進んだと考えるのが自然です。
 龍馬は、土佐勤王党の密命を帯びて文久元(1861)年10月中旬、丸亀の矢野市之進道場に剣術修行に行くという名目で、土佐を発ち、長州を目指しました。残された史料を照合すると、龍馬の丸亀滞在期間は同月の末までと考えられており、その後、長州に向かっています。近年、この矢野道場の場所を特定するため、地元のNPOが法務局資料や旧土地台帳等で調査したところ、丸亀市内の三井住友海上ビルの敷地にあったことが分かりました。矢野道場のすぐ南側には、丸亀の勤王家・土肥大作(どひ・だいさく)とその実弟である七助の家があり、龍馬も彼らと交流していた可能性があります。今回のコーナー展では、土肥大作の書作品も展示していますので、ぜひご覧ください。
敷島館

 琴平における龍馬の伝承は、同地随一の旅館「敷島館(しきしまかん)」にも残されています。ただし、それは、同旅館の前身に当たる「芳橘楼(ほうきつろう)」の頃ですが、ここに龍馬が宿泊したという伝承が『町史ことひら4編』に書かれています。
 琴平に龍馬が来た可能性のある時期は、前述の長州行きの帰路である文久2(1862)年2月です。龍馬が、勤王活動の盛んなこの地を訪れるという流れに違和感はありませんし、同地には多くの志士たちが頼った侠客・日柳燕石(くさなぎ・えんせき)がいました。龍馬もまた、燕石に資金提供を求めて琴平に寄った可能性があります。そう考えると、龍馬はその後、阿波ルートで土佐に帰国したのではないかという推察ができるのです。
 そして、その琴平から土佐に至る道中の美馬(現・徳島県美馬市)に「龍馬を泊めた」との伝承が残る武家屋敷「鎌村家」が現存しています。美馬と琴平の間には金毘羅参詣道があり、両地域をつなぐ人物に美馬君田(みま・くんでん)という人物がいました。君田は、美馬の願勝寺で住職をしていましたが、天保14(1843)年に隠居し、以後は琴平に移住して、燕石とともに勤王家として活躍しています。龍馬は、琴平で君田に会い、彼から鎌村家を紹介された可能性があります。
 今回のコーナー展では、燕石と君田の書作品も展示しています。彼らの直筆作品を高知で見られる機会はなかなかないと思いますので、これを機に、ぜひご来館いただければと思います。(写真下は、燕石の書作品)
日柳燕石の書作品

 繰り返しになりますが、今回の展示会は、龍馬の「伝承」を調査した春野公麻呂さんの成果をもとに構成しています。「伝承」を歴史的資料として扱えるかに関しましては、疑問符を持つ方もおられるかもしれません。しかし、こうした口碑研究の積み重ねから、別の糸口をつかむこともあり、それが歴史学の発展に寄与することも十分にありうることです。一次史料がない、記録がないからと一概に否定することは、正しい姿勢とはいえないのではないでしょうか。龍馬の四国における伝承をご存知の方がおりましたら、ぜひ、館にご一報いただければ幸いです。

《参考資料》『大回遊!四国龍馬街道280キロ』(著:春野公麻呂)、『現代龍馬学会紀要 2010』「龍馬が開眼した旅路~四国龍馬街道~」(発表者:春野公麻呂)、『讃岐人物風景〈8〉』(編:四国新聞社)、『徳島先賢伝』(著:藤井喬)、『琴平町史』(編:琴平町史刊行会)、パンフレット『土肥大作と勤皇の志士展』(編集・発行:丸亀市立資料館)


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