学芸員エッセイ その52「没後150年 薩摩藩家老・小松帯刀《前編》」

没後150年 薩摩藩家老・小松帯刀《前編》

 龍馬の生まれたまち記念館では、今年の7月18日(土)から8月24日(月)まで、企画展「没後150年 薩摩藩家老・小松帯刀(こまつ・たてわき)と幕末政局」を開催します。タイトルの通り、今年没後150年を迎える薩摩藩家老・小松帯刀の生涯を紹介しつつ、彼が所属した薩摩藩という巨大組織の目線から、複雑な幕末政治史を俯瞰するという内容です。
小松、龍馬、長次郎像

 「なぜ、薩摩藩関係者の展示会を高知で実施するのか?」という疑問を持つ方も、おられるかもしれません。その問いに対しては、「当館が推す坂本龍馬と近藤長次郎は、小松がいなければ歴史の表舞台で活躍できなかったから」と答えることができるでしょう。龍馬と長次郎が薩長連合(薩長同盟)に貢献したことは、当館の展示やホームページで紹介していますが、それは、彼らが「薩摩藩士」としての立場を得ていたからであって、その後ろ盾となった人物こそ、小松でした。まさに、小松なくして、龍馬も長次郎もなかったのです。(上の写真は、向かって左から小松帯刀像〈鹿児島市〉、坂本龍馬像〈当館中庭〉、近藤長次郎像〈同〉)
 小松の最大の功績は、「中央政局と化した京都において、薩摩藩の最高権力者・島津久光(しまづ・ひさみつ)の名代として、同藩士や各藩関係者、そして朝廷の間を取り持ち、倒幕を実現した」ことにあります。小松は、事務処理やコミュニケーションの能力に優れており、特に、高い教養が要求される朝廷関係者と対話できることは、大きな強みでした。「龍馬の功績」として語られがちの薩長連合や大政奉還も、上級武士である小松がいたからこそ、実現できたのです。
桜島

 小松は、天保6(1835)年10月14日、鹿児島城下の肝付家に生まれました。幼名を尚五郎といいます。肝付家は、喜入(現・鹿児島市)の領主を代々務めており、小松が生まれた城下の家は、「喜入屋敷」と呼ばれていました。なお、肝付家は戦国時代から島津家に仕えた名門の家系で、明治~大正期の軍人・政治家の肝付兼行(1853~1922)、アニメ「ドラえもん」のスネ夫役等で知られる声優・肝付兼太氏(本名:兼正、1935~2016)、マンドリン奏者の肝付兼美氏(1961~)は、その一族です。
 第三子として生まれた尚五郎の同家内における立場は低く、兄に比べて冷遇された少年時代を送ったと、『小松帯刀氏幼若略歴』には記録されています。そうした家庭環境で両親に認められるため、尚五郎はひたすら勉学に励み、このことが「英才・小松帯刀」の基盤を作りました。尚五郎は、儒学を薩摩藩校教授の漢学者・横山安之丞、和歌を薩摩藩士で歌人の八田知紀(はった・とものり)に師事しており、彼らから得た教養は、やがて幕末政局で大いに役立つこととなります。今夏の企画展では、八田の作品を展示する予定なので、ぜひご覧ください。

 尚五郎が初めて薩摩藩主・島津斉興(しまづ・なりおき)に拝謁したのは、弘化元(1844)年のことでした。当時10歳だった尚五郎は、この時、斉興に弓を進上したそうです。
 10代藩主の斉興は、当時、重役の調所広郷(ずしょ・ひろさと)とともに藩の財政を回復させる改革に着手していました。この改革は、商人に対する借金の「踏み倒し」や砂糖専売のために奄美大島の人々に圧政を敷くなど、決して道徳的とはいえない部分がありました。しかし、こうした経済政策の数々が、後に薩摩藩を幕末政局の表舞台に立たせる基盤となったことは、間違いありません。
反射炉跡

 その後、薩摩藩では斉興の後継者を巡る「お家騒動」があり、これに勝利した島津斉彬(しまづ・なりあきら)が、嘉永4(1851)年に藩主となりました。海外の知識や技術を積極的に吸収していた斉彬は、自身が温存していた富国強兵策を、さっそく藩政に反映させます。その基幹となった事業が、鹿児島湾に建設した工業地帯「集成館」でした。ここでは、大砲を造るための製鉄施設「反射炉」の設置をはじめ、地雷などの兵器、ガラスやガス灯の開発なども行われ、まさに明治の世を先駆けた光景が展開されていたのです。(上の写真は、反射炉跡)

 薩摩藩が技術革新に邁進する中、嘉永6(1853)年6月、黒船艦隊を率いてアメリカのペリーが浦賀に来航し、「幕末の動乱」が始まります。その翌年、日米和親条約が締結されたことで、国防はさらに重要課題となりました。
 日本が国際社会への対峙という「国難」にさらされる中、薩摩藩でも、これに立ち向かえる人材が求められました。そして、安政2(1855)年1月、21歳の青年となっていた尚五郎に大きな転機が訪れます。藩から、奥小姓・近習番(藩主の身近に仕える仕事)に選ばれ、その4カ月後には江戸勤務を命じられたのです。この年の3月、斉彬は、西郷隆盛ら優秀な若手らとともに江戸へと上っており、勉学に励み続ける尚五郎もまた、その前途有望さを見込まれていました。さらに、後継者争いに敗れた斉彬の異母弟・久光も、この頃から尚五郎に注目していたと考えられます。その後、小松家に養子入りした尚五郎は、帯刀と改名しました。
島津斉彬・久光・茂久

 こうして、政治家として順調な滑り出しを見せた小松ですが、安政5年7月、斉彬が急死してしまったことで、藩政は急展開を迎えます。同年10月、斉彬の遺言により、時期藩主は久光の子・茂久(もちひさ=後の忠義)と決まりました。しかし、茂久はまだ若年だったため、隠居していた斉興が実質的な最高権力者に返り咲くこととなります。そして、この時、藩主の後見人として頭角を現してきた人物が、久光でした。翌年9月に斉興が病没すると、以後、久光の権力は増大し、薩摩藩は新時代へと突入します。(上の写真は、戦前に発行された絵葉書です。斉彬、久光、茂久が描かれています)
 文久元(1861)年4月、久光は幕府からの信頼の元、自身を「国父(こくふ)」と呼ぶことを発表します。これにより、藩主ではない久光が、薩摩の最高権力者として位置づけられることとなりました。翌月、小松は久光政権の重臣から側役(主君の側近)に任命され、いよいよ幕末史を動かす「久光―小松」体制の第一歩が出来上がったのです。
 同年10月、久光は人事を一新し、かつて斉彬が抜擢した若手幹部団(誠忠組)を自身の体制に組み込みました。この時、大久保利通、岩下方平(いわした・みちひら)らが、その重要ポストに就き、小松には「御改革御内用掛」という役職が与えられます。藩政改革の実務に関する仕事であり、小松の「誠忠組メンバーとの協調性」及び事務処理能力を久光が高く評価しての人員配置でした。
 こうして新体制を作り上げた久光政権は、斉彬の悲願であった「率兵上京」を成功させるべく、準備に着手します。中央政局と化した京都(安政7〈1860〉年に起きた「桜田門外の変」以降、政治の中心は江戸から天皇の住む京都へと移行していました)に大軍団を送り込むことで、幕府の政治を薩摩藩主導で改革することが目的です。そして、この一大プロジェクトこそが、幕府に代わって薩摩藩が中央に進出する布石となっていきました。

 次回のエッセイでも、小松帯刀関連の情報をお伝えします。なお、企画展の日程は、今夏のコロナウイルスの状況次第では、変更することがありうる(一時休館など)ことは、前提にしていただければ幸いです。

《参考資料》『小松帯刀』高村直助著/『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著/『龍馬を超えた男小松帯刀』原口泉著/『新説 坂本龍馬』町田明広著/『島津久光=幕末政治の焦点』町田明広著/『西郷隆盛その伝説と実像』町田明広著


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