学芸員エッセイ その53「没後150年 薩摩藩家老・小松帯刀《後編》」

没後150年 薩摩藩家老・小松帯刀《後編》

 龍馬の生まれたまち記念館では現在、企画展「没後150年 薩摩藩家老・小松帯刀(こまつ・たてわき)と幕末政局」を開催しています。本年が没後150年となる薩摩藩家老・小松帯刀の生涯と同藩の政治動向から、複雑な幕末政治史をひも解くという内容で、8月24日(月)までの開催です。(日程に関しましては、コロナウイルスの状況次第では、一時休館することもあります)
 奇しくも、開催初日の7月18日は、小松の命日でした(ただし旧暦。公的には7月20日ですが、大阪府権大参事・木場伝内〈こば・でんない〉から薩摩藩士・大久保利通に宛てた手紙には18日と書かれています。また、16日説もあります)。150年の時を経て、坂本龍馬の故郷である高知で企画展が開催できることを心よりうれしく思います。

 本エッセイでは、前回に続き、幕末期(島津久光の率兵上京から薩長連合成立まで)における小松の業績について記述します。また、企画展で公開する資料についても、一部紹介しますので、来館に当たっての参考になれば幸いです。
垂れ幕

 文久2(1862)年4月、兵を率いて上京した薩摩藩の実質的最高権力者・島津久光(しまづ・ひさみつ)は、姻戚関係のある近衛家はじめ朝廷関係者を訪問し、その政治基盤を固めました。外様大名で、且つ藩主でもない人物が公家と接触するという事態は、従来の幕藩体制下では考えられないことでした。小松もこの時、久光に同行しています。
 こうして中央政局と化した京都で権力を握った久光は、江戸に赴き、幕府に対して人事や軍制の刷新を提言しました(文久の改革)。薩摩藩には、幕府・朝廷との姻戚関係もあり、率兵上京により天皇の威光と強い軍事力を背景に得たその発言力は、徳川の政治を動かすほどに増大していたのです。
 改革を成功させた薩摩藩一行は、年内のうちに鹿児島に帰りました。そして、同年12月、小松は、これまでの藩内及び京都・江戸での周旋活動が評価され、家老に抜擢されました。その役目は、政治、軍事、産業、技術など多岐にわたっており、小松が若干28歳にしてどれほど優れた実務能力を持っていたかがうかがい知れます。
小松帯刀像

 薩摩藩の幕末史といえば、西郷隆盛大久保利通を中心に語られがちです。たしかに2人が明治維新に果たした役割は大きかったのですが、幕末期の同藩の体制は、あくまで「久光―小松」であることを押さえておく必要があるでしょう。事実上の最高権力者は久光であり、ナンバー2の小松は、西郷や大久保にとって上司でした。そして、中央政局・京都に常駐できない久光に代わり、同地で藩士たちを率いる役割を小松は持っていたのです。
 企画展では、小松と久光の書いた直筆の和歌(短冊)を展示しています。これは、高知県立坂本龍馬記念館からお借りしたものであり、薩摩藩の重要人物2人の資料を並べて公開できることは、たいへん意義深いものがあります。本展における唯一の「小松の直筆」資料ですので、ぜひ、ご覧ください。
展示の様子

 
 小松の家老就任の翌年に当たる文久3(1863)年7月、薩摩藩に危機が訪れました。その前年に起きた生麦事件(久光一行が江戸から京都に帰る道中、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件)の報復として、鹿児島湾にイギリス軍が攻めてきたのです(薩英戦争)。この時、小松は軍の采配を振るい、結果、薩摩軍とイギリス軍は「痛み分け」の結果となりました。
 しかし、この戦いで受けた薩摩の市街地や軍事施設への被害は、甚大なものがありました。小松は、この難局に当たり、アメリカの貿易商と交渉するなどして復興に取り掛かります。同時に、イギリスに対しては、講和を生かして留学生派遣事業などを展開しました。結果、薩摩藩とイギリスは、戦争をしたにもかかわらず仲良くなり、このことは、同藩の更なる強化へとつながっていきます。(写真は、鹿児島市内にある「薩英戦争記念碑」)
薩英戦争記念碑

 
 薩英戦争の翌月、久光も小松も不在の京都で、大事件が起きました。朝廷内の主流派の公家たちが、薩摩藩・会津藩の力を得て、過激な攘夷論を訴える長州勢力とそれに共感する公家一派を京都から追放したのです。「八月十八日の政変」と呼ばれるこの事件で、小松に代わって周旋活動に活躍した人物は、薩摩藩士・高崎正風(たかさき・まさかぜ)でした。当時、久光と近い公家・中川宮(なかがわのみや)に仕えていた高崎は、朝廷と会津藩に働きかけ、天皇の許可のもと、政変を実行へと移したのです。
 なお、企画展では、高崎が書いた直筆の和歌(短冊)も展示しています。高崎は、和歌のエキスパートとしても知られており、明治21(1888)年から同45年まで御歌所(宮内省の和歌に関する事務機関)の所長を勤め、明治天皇にも和歌を指導しました。ぜひ、その繊細な筆遣いを会場でご覧ください。
高崎正風の和歌

 長州藩を危険な存在と判断した幕府は、元治元(1864)年8月、これを討つ命令を下しました(第一次長州征伐)。しかし、ここで意外な所から救済の手が伸びます。薩摩藩士・西郷隆盛が、長州藩に働きかけ、藩主の謝罪と責任者の処罰で事態を終結させたのです。薩摩藩は、長州征伐に積極的だっただけに、これは藩政レベルでの「路線変更」でした。
 西郷のこの行動には、理由がありました。薩摩藩は、この頃からすでに、幕府に対して警戒の念を持っており、「長州藩が滅ぼされた次は、薩摩がターゲットになる番ではないか」と不安を募らせていたのです。そのきっかけは、長州征伐に当たり、薩摩藩の軍賦役・黒田清綱(くろだ・きよつな)が藩上層部に宛てた提言でした。黒田は、提言の中で「幕府は薩摩藩を危険視している。薩摩軍を長州攻撃に当てることで、我々の戦力を削ごうとしている」と訴え、これを受けた久光と小松は、以後、「抗幕(幕府に対抗する)」姿勢へとシフトしていったと考えられます。
 本展では、黒田直筆の和歌を3点まとめて展示しています(軸装1点、短冊2点)。ここで紹介する作品は、そのうちの一つで、永保3(1083)年に起こった戦乱「後三年(ごさんねん)の役」のエピソードに基づいたものです。この戦いで武将・源義家(みなもとのよしいえ)が鳥の群れの動きで敵を察知した話をモチーフにしているのですが、自らの名前も「源清綱」としている所が面白いですね。
黒田清綱の和歌

 こうして、幕府の延命路線から長州藩との連合を視野に入れ始めた薩摩藩は、それを実現する「薩長連合(薩長同盟)」のプロジェクトを開始しました。同連合は現在、「龍馬が果たした偉業」として、よく知られています。しかし、それは一面的な見方であり、実際は、その主体者は薩摩藩でした。
 薩長連合を実現するためには、両藩の周旋活動ができる人材が不可欠です。そこで小松は、勝海舟のもとで海軍技術を習得した坂本龍馬らに目を付けました。この頃、勝の海軍教育施設は、同年に起きた池田屋事件の余波を受けて閉鎖へと追い込まれることとなり、龍馬らは行き場を失っていたのです。元治元(1864)年11月26日付に書かれた小松から大久保利通宛の手紙には、龍馬らの登用に関する内容が書かれています。
 薩摩藩の庇護下に入った龍馬たちは、連合プロジェクトに合流することとなり、ここから彼のフットワークを生かした周旋活動が始まります。この頃の龍馬は、「土佐の人」ではなく、明らかに「薩摩藩士」でした。脱藩浪士にすぎない龍馬が、各地で政治的な活動ができた理由は、薩摩藩という巨大組織、そしてその大幹部だった小松の後ろ盾があったからこそでした。(写真は、長崎市内の龍馬像)
長崎の龍馬像

 薩摩藩主導で進められたこのプロジェクトの鍵となったものが、物質的な取引です。幕府に攻撃される立場となっていた長州藩は、敵を迎え撃つための武器・艦船を欲しがっており、小松や龍馬は、この願いを叶える形で両藩の融和を模索しました。慶応元(1865)年7月、小松は、長州藩から派遣された藩士・井上馨、伊藤博文と長崎で会い、「武器を薩摩藩名義で買いたい」という同藩の要望を聞きます。小松は、この名義貸しを許可し、その後、井上らがイギリス商人・グラバーと交渉し、銃の購入を成功させました。
 次の課題は、艦船です。この時、小松とともに活躍した人物が、龍馬と同じく土佐出身で勝海舟門下だった近藤長次郎(こんどう・ちょうじろう)です。知識が豊富で事務や営業にも優れていた長次郎は、小松の信頼が高く、その能力を生かして長州藩の欲しがっていた艦船・ユニオン号を入手することに成功しました。この取引が、両藩和解の大きな力となり、翌年1月、薩長連合は結ばれたのです。
 今回、企画展に合わせ、オーテピア高知図書館から長次郎の書いた手紙を2点借りることができました。一つは、長次郎が龍馬に宛てたもの、もう一つは、長次郎が妻に宛てたものです。当館での展示は、4年ぶりの資料なので、これを機にぜひ、見に来てください。(写真は、長崎市内にある近藤長次郎顕彰碑)
近藤長次郎の顕彰碑

 この展示会におきましては、小松帯刀関連の方々から心温かいご支援をたくさんいただきました。まず、小松帯刀はじめ幕末の薩摩藩研究で知られ、昨年は『新説 坂本龍馬』を刊行された神田外語大学の町田明広(まちだ・あきひろ)先生です。町田先生は、2016年に当館で開催した「近藤長次郎シンポジウム」で講師を務めてくださっており、以来、先生の著書や論文などで、筆者も多くのことを学んできました。今回は、そのご縁で、企画展会場に展示する先生直筆のサインとメッセージをいただきました。
 次に、2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」で小松帯刀を演じた俳優・町田啓太(まちだ・けいた)さんからも、同じくサインとメッセージを送っていただきました。町田さんは、2010年のデビュー以来、ドラマや映画、舞台作品などで幅広く活躍されています。「西郷どん」では、端正な容姿と立ち振る舞いで品格あふれる小松を表現したことは、記憶に新しい方も多いでしょう。
 町田明広先生と町田啓太さんの「ダブル町田」によるサインとメッセージは、企画展の第二会場で展示しています(ただし、写真撮影は禁止です。ご理解くださいませ)。本展は、当館2階のふれあいホールが第一会場、同じく2階の常設展スペースが第二会場となっておりますので、どちらも見逃さないようにお願いいたします。
CD

 そして、第一会場のBGMには、小松の生まれた肝付(きもつき)家の末裔に当たるマンドリン奏者・肝付兼美(きもつき・かねみ)さんのCD「小松帯刀の琵琶〜幕末・維新にまつわる音楽〜/青葉マンドリン室内楽団」を使っています。肝付さんは、幕末史に関わる曲もいくつか創作されており、今回は同CDの中から、小松帯刀が好んだ琵琶になぞらえて小松の生涯を綴った『小松帯刀の琵琶』と、近藤長次郎を主題にした『嗚呼、饅頭屋長次郎』を選びました。両作品とも名曲で、企画展会場に華を添えています。マンドリンが奏でる涼やか且つ清らかな旋律をぜひ、本展とともにお楽しみください。

 なお、解説パネルの作製に当たりましては、以下の資料を参考にいたしました。皆様の研究成果に支えられ、この企画展が開催に至りましたことを心より感謝申し上げます。

《参考資料》
『小松帯刀』高村直助著/『幻の宰相 小松帯刀伝』瀬野冨吉著/『龍馬を超えた男小松帯刀』原口泉著/『新説 坂本龍馬』町田明広著/『図説 坂本龍馬』監修:小椋克己、土居晴夫/『ようわかるぜよ!坂本龍馬』木村武仁著/『鹿児島県史料. 玉里島津家史料』3,4巻 編集:鹿児島県歴史資料センター黎明館/『島津久光=幕末政治の焦点』町田明広著/『攘夷の幕末史』町田明広著/『敬天愛人』37号「小松帯刀の改名時期について」粒山樹著/『西郷隆盛その伝説と実像』町田明広著/『薩長同盟論 幕末史の再構築』町田明広著/『グローバル幕末史 幕末日本人は世界をどう見ていたか』町田明広著/『近藤長次郎 龍馬の影を生きた男』吉村淑甫著/『龍馬暗殺』桐野作人著/『その時、龍馬は、新選組は―維新の胎動 幕末年表帖 (京都観光基本データ帖) 』監修:赤尾博章・青木繁、編集:ユニプラン編集部 /『歴史のなかの新選組』宮地正人著/『幕末キーパーソン―龍馬をめぐる人々― 講演録』高知県立坂本龍馬記念館発行/講演資料「龍馬暗殺の新視点」講師:桐野作人/講演資料「ユニオン号事件の実相―近藤長次郎の動向を中心に」講師:町田明広/論文「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」町田明広著/講演資料「大政奉還は平和的手段か」講師:豊田満広


このページのTOPへ


« | トップページ | »