学芸員エッセイ その54「化学者で文化人 近重真澄」

化学者で文化人 近重真澄

 龍馬の生まれたまち記念館では、8月25日(火)から新しい展示会を開催しています。当館が建つ高知市上町(かみまち)出身の化学者・近重真澄(ちかしげ・ますみ)に関する内容で、同人物が今年生誕150年を迎えることを機に、主催することとなりました。11月14日までの開催(※一部の資料は10月2日までの限定公開)なので、ぜひ、お越しください。(※コロナウィルスの状況次第では、休館の措置を取る場合もあります)
 近重博士は、理学が爆発的に進歩した近代日本の中、無機化学という分野(後述)を発展させたことで、日本と世界の自然科学史にその名を刻んだ人物です。まさに、日本の化学における草分け的存在の一人であり、その業績は、今も同学を志す後進たちのデータベースとなっています。
 また、近重博士は、茶道や禅、漢詩などに精通した文化人としての側面も強く、多くの著書や芸術作品を残しました。本展では、近年、高知県内の個人の方が発見・収集されました近重博士の作品や関連資料(当記事の写真も含む)をいくつか公開いたします。ご協力いただきましたことを心より御礼申し上げます。

近重真澄肖像写真

 『高知県人名事典』によると、近重博士は、「明治3(1870)年9月3日、高知市街北奉公人町で、卓馬(八潮彦)、楠の二男に生まれた」と記載されています。本展も、その前提のもと、「上町の偉人」として企画したのですが、同著には「高知市中島町6番地ともいわれる」という但し書きも追記されていました。たしかに、昭和15(1940)年に土陽新聞社が刊行した『高知縣名鑑』の中にある近重博士のプロフィール欄には、「(出身地)高知市中島町十七番地」と記載されています。
 近重博士はどんな少年だったのでしょうか? その数少ない記録が、学術団体「金属学会」の会誌『まてりあ』第48巻第8号の論文「金相学の誕生と材料科学への発展」にあります。それによると、「(近重博士が)中学時代を過ごした高知は当時、自由党が全盛で政治への関心が高く、眞澄(※原文ママ)も初めは政治、法律に進もうとした」そうです。しかし、やがて科学を志すようになり,17歳の時、漢文で「科学論」を執筆しました。この論説で近重少年は、「科学の研究は、一つの国だけでなく、世界の国々に利益をもたらす。権力者が、一つの国、一つの世代だけの利益を求めることとは、同列には語れない」という趣旨のことを書いています。

第五高等学校教授時代の近重博士

 明治24(1891)年、第一高等中学校(後の旧制第一高等学校=現・東京大学教養学部等)を卒業した近重青年は、東京帝国大学理科大学化学科(現・東京大学大学院理学系研究科)に進みました。同27年に卒業すると、すぐに大学院へと進み、翌年には、論文を3本発表しています。
 同29年7月、大学院を卒業した近重青年は、第五高等学校(現・熊本大学)の教授となりました(写真上は、同校教授時代のもの。同30年撮影)。そして、この年に大きな発表をします。日本で採取されたテルル(原子番号52の元素)の質量を測定し、イギリスの化学雑誌に論文を掲載したのです。この成果は、現在定められている「周期表」のヨウ素(原子番号53の元素)とテルルの位置関係を定めるに当たり、大きな根拠となりました。
 同30年6月、京都にも帝国大学が発足し、その三か月後には分科として理工科大学が設置されました。翌年12月、近重博士は同大学の助教授となり、京都に根を下ろした化学者人生が、本格的に始まります。同35年12月には、「インジゴ(天然藍の主成分)に関する研究」で理学博士の学位を授与されました。

ドイツ留学中の近重博士

 明治38(1905)年、京都で教授職を務めていた近重博士に、大きな転機が訪れました。この年8月、無機化学の研究のため、ドイツとイギリスへの留学が決定したのです。無機化学とは、炭素を含まない化合物(複数の元素で構成する物質)について研究する学問であり、近重博士は、後にこの分野の専門家となります。
 ドイツに渡った近重博士は、ゲッティンゲン大学のタンマン博士に師事しました(写真上は、ドイツ留学中に撮影。立っている人物が近重博士)。タンマン博士は、熱理解析という「研究対象となる合金に熱を加えることで、その状態変化を調査する」手法を確立した人物です。近重博士は、これを熱心に学び、明治39年には、論文を発表しました。また、漢文にも精通していた近重博士は、タンマン博士らが取り組んだ「金属組織学」を意味するメタログラフィー(Metallography)を「金相学」と訳しました。
 同年4月、近重博士はイタリアの首都・ローマへと渡りました。ここで開催された万国応用化学会に当たり、委員として参列するためです。さらに、明治40年には、フランス(当初のイギリス行きが変更になった)に留学する機会を得ました。こうしてヨーロッパの各地で化学の最前線を学んだ近重博士は、翌年7月に帰国し、京都帝国大学理工科大学の教授に就任しました。(写真下は、フランス留学中に撮影)

フランス留学中の近重博士

 
 大正3(1914)年、近重博士が務めていた京都帝国大学理工科大学は、理科大学と工科大学に分科されることとなります。これにより、近重博士の肩書は「京都理科大学教授」となり、教鞭をとっていた「第二講座」は、「無機化学」へと変わりました。
 同6年、近重博士は自身の研究を『金相学』にまとめ、発表しました。この著書の中には、刀剣や銅鏡を化学の立場から分析した結果も記述されており、近重博士が歴史学や考古学の分野にも貢献していたことが分かります。この年、近重博士は、熊本県にある釜尾古墳の壁画に使われていた顔料の調査も行い、その報告書をまとめました。
 翌年4月、理科大学の学長となった近重博士は、同年中に法隆寺(奈良県)の壁画保存方法の調査をし、さらに、各地の遺跡から発掘された青銅器を分析した「東洋古銅器の化学的研究」も発表しました。近重博士の研究は、文化財を次世代に継承していく活動にも、大きな影響力を与えていたのです。

定年退官後の近重博士

 大正9(1920)年、京都理科大学に金相学講座が開設され、近重博士は、これも担当することとなりました。ここで、硫黄やセレン(原子番号34の元素)の化合物など様々な研究に取り組み、それらの中には世界で初めて手掛けたものもありました。この頃が、近重博士の黄金時代と言えるでしょう。
 同時期、近重博士は、純粋化学と工業化学との緊密化を実現する計画を立てていました。化学をもっと実生活に役立てようという取り組みです。その結果、大正15年、高槻(現・大阪府高槻市)に化学研究所が開設され、翌年、近重博士はその所長となりました。
 多くの研究で功績を残し、金相学を発展させた近重博士は、昭和5(1930)年、定年退官しました(写真上は、退官の2年後に撮影したもの)。以後、研究職からは一切の手を引き、京都で文化人として悠々自適の生活を送ることになります。近重博士の文化人としての実力は、高く、禅学や漢詩、茶道などにも通じていました。今回の展示会では、近重博士が描いた漢詩と和歌、絵画の掛軸作品を複数点公開します(※10月2日まで。また、他にも、同日を境に展示を終了する資料があります)。温かみやユーモアセンスにあふれた作品もありますので、ぜひ、ご覧ください。

近重博士の墓

 化学者として、文化人として、激動の日本近代史を生きた近重博士は、昭和16(1941)年11月16日、72歳で永眠しました。生涯において育成した門下生は50名以上にのぼり、やがて彼らが近重博士の遺志を継ぎ、日本と世界の化学会を発展させていったのです。
 近重博士の墓は、高知市の高見山にあります。昨年、筆者が訪れたところ、墓は草に覆われ、長らく誰もお参りに来た様子がないようでした。これほどの功績を残した人物が、歴史の中に埋もれていくのは、寂しいと同時に、私たちが過去から学ぶ機会を一つ失うことにもなると思います。本展が、歴史の掘り起こしに貢献できれば、幸甚の至りです。

《参考資料》
『高知県人名事典』(出版:高知新聞社)、『高知縣名鑑』(発行:土陽新聞社)、『まてりあ』第48巻第8号 論文「金相学の誕生と材料科学への発展」(小岩昌宏著)、『日本の基礎化学の歴史的背景』(編集:京大理学部化学・日本の基礎化学研究会)、『金相学』(近重真澄著)、論文「東洋古銅器の化学的研究」(近重真澄著)


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