◆2階常設展◆ 展示資料の入れ替えを行いました!
◆2階常設展で展示資料の入れ替えを行いました。
2階の常設展で、資料の入れ替えを実施しました。初公開のものもありますので、ぜひお越しください。
①高島秋帆関連資料
先日から始まった大河ドラマ「青天を衝け」にも登場している幕府の砲術師・高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の関連資料を二つ展示します。高島直筆の漢詩と高島流砲術の演習を描いた絵画(作者不明)です。両資料とも、過去に展示したことがありますが、併せて展示するのは、これが初めてなので、ぜひご覧ください。
高島は、寛政10(1798)年8月15日、長崎の砲術師の家に生まれました。父から砲術を学び、文化11(1814)年、出島に赴任し、そこで西洋の知識を得ます。天保3(1832)年以降は、鉄砲を外国から輸入し、その鋳造をするという業務にも当たりました。
こうした経験を重ね、日本の砲術が海外に比べていかに劣っているかということを知った高島は、オランダの技術を積極的に吸収し、独自の砲術体系を作っていきます。そして、日本近海にたびたび外国船が出没する中、日本にも西洋流砲術を用いた防衛が必要と幕府に訴え、高島流砲術を完成させたのです。
天保12(1841)年、高島は、徳丸原(現・東京都板橋区)で幕府関係者たちが見守る中、日本初となる西洋式砲術の公開演習を行いました。今回展示する絵画資料は、この演習を描いたものと思われます。徳丸原のあった場所は、現在、「高島平(たかしまだいら)」という地名になっていますが、これは高島から名づけられたものです。
こうして幕府に砲術師として重用されるようになった高島ですが、その翌年、無実の罪を着せられたことにより、10年以上もの間、軟禁生活を余儀なくされました。しかし、嘉永6(1853)年のペリー来航を機に幕府から出獄を命じられ、以後、砲術に再び力を入れると同時に、積極的な開国も訴えました。
今回展示する漢詩は、出獄の翌年・安政元(1854)年に作成されたものです。この作品で高島は、自身の名前の上に「火技開基」と書いています。「火技」とは砲術のことで、その「開基(=創立者)」という意味です。高島はこの名を使うことが出来るほど、自他ともに認める砲術の開祖的存在でした。
②『呑洋楼雑記』6巻
昨年、12巻セットで当館に寄贈された幕末文書の写本集『呑洋楼雑記(どんようろうざっき)』の6巻を初公開します。本巻では、慶応元(1865)年3~12月の情勢が記録されているのですが、その中に、なんと南北戦争からリンカーン大統領暗殺、さらには同時期に起きたスワード国務長官暗殺未遂事件に至る当時のアメリカ情勢を書いた部分がありました。今回は、そのページを展示しています。
南北戦争は、黒人奴隷制の賛否を巡り、1861年に米国内で勃発した内乱です。そして、奴隷制度に反対する北部合衆国を率いた人物こそ、有名な16代アメリカ大統領・リンカーンでした。1865年、戦いは北部合衆国の勝利に終わり、これが黒人奴隷制を廃止する大きな力となったのですが、同年4月、リンカーンは南部連合国の支持者により暗殺されてしまったのです。
本資料には、こうしたアメリカの激動期が3ページにわたって記述されていました。この書物の執筆者がどのようなルートからアメリカの情報を得たのかは不明ですが、国際社会に対峙していかねばならない幕末という時代に、海外の知識を吸収しようとする姿勢が見えるのではないでしょうか。
なお、坂本龍馬とリンカーンは、同じ時代を生きた人物です。一方は日本、一方はアメリカで「祖国の統一」を目指し、「新しい時代」を切り開きましたが、リンカーンは1865年、龍馬はその2年後に暗殺されました。
③春木南溟の山水画
江戸後期から明治初期に活躍した画家・春木南溟(はるき・なんめい)による山水画です。タイトルの「梅花書屋」は、「梅の花が咲く山奥に家屋が見える」という構図に用いられるもので、この作品も、人工物と自然との調和が楽しめることでしょう。山肌の描写も迫力があり、見事の一言です。
南溟は、出身は江戸ですが、土佐藩との関係も深いことでも知られています。特に、土佐の15代藩主・山内容堂(やまうち・ようどう)は、江戸滞在中、南溟を寵愛しました。この作品は、南溟の最晩年である明治11(1878)年に書かれたもので、土佐の徳弘董斎(とくひろ・とうさい)に送られたと記録されています。徳弘は、幕末土佐において前述の高島流をマスターした優れた砲術師でしたが、引退後は画家として活躍していました。
龍馬の生まれたまち記念館では、コロナ禍の影響もあって来年度の企画展は、大幅に削減する方向となりました(夏季と秋季のみ実施)。その分、常設展の入れ替えによって、今まで以上の頻度で貴重な資料を展示してまいります。上記資料の展示は、4月中旬までの予定ですので、ぜひお越しください。