龍馬の生まれた町
龍馬は幕末天保6(1835)年に高知城下 本丁筋に誕生
青年期までこの地で過ごした龍馬、その源を探る
慶長6(1601)年高知城の築城開始とともに、本格的な城下町の建設が始められた。お城を中心とした武家の住む郭中に対して、町人街は郭中を挟んで東西に設けられた。郭中の西側には武家の奉公人が多く住んでいたので、北奉公人町・南奉公人町などの町名が見られ、東側はりまや橋界隈には職人町があった。
龍馬は本丁(現在の上町一丁目)の郷士坂本家に次男として生まれた。本家は才谷屋という裕福な商家である。龍馬たちの住む下級武士や職人、商人の町である上町と下町に町割りされていた。土佐藩の身分制度は厳しく、郷士の家に生まれた龍馬は裕福と言えども、郭中に居住することは出来なかった。
龍馬の生まれ育った上町には当時、下級武士の他に職人や商人たち約800軒の家があった。中でも数が多いもので鍛冶屋・紺屋がともに26軒、大工が18軒確認できる。また日雇・萬屋なども職業として存在し、とても興味深い。このように様々な職業の人々が軒を並べ、お互いに助け合いながら、人々は活気溢れる暮らしをしていた。
この町で、裕福な商人を本家として育った龍馬は、上士と言っても商人から借金し、頭が上がらない現実を見つめ、また専門的な知識を教えてくれる職人や商人、大勢の家族に囲まれて成長した。このような環境で、幼少時代は落ちこぼれとからかわれた龍馬ものびのびと心大きく育ち、自然に平等意識を身につけた。後の身分差を超えた行動力はこの町が育てたと言えるのではないだろうか。
旧 北奉公人町
江戸時代には、足軽や奉公人が多く住んでいたので名付けられた町名。慶安2(1649)年に野中兼山が町割を行い、内町から北奉公人町と改称。その後、武士がしだいに減り商人と職人の町となった。
①左行秀邸跡
左行秀(1813~1887)は有名な刀工で、筑前(福岡県)生まれ。弘化4(1847)年に高知城下に入り、安政3(1856)年に山内家お抱えの刀・鉄砲鍛冶を命じられた。 ※史跡・碑無し
②河野敏鎌誕生地
河野敏鎌(1844~1895)は幕末の志士、政治家。通称は万寿弥。北奉公人町に生まれ、土佐勤王党に参加し、坂本龍馬が脱藩した折、朝倉村まで見送ったといわれる。勤王党の獄で終身刑を受けた。のち、改進党の副総裁となったり、農商務、司法などの大臣を歴任した。 ※碑有り
旧 本丁筋
江戸時代は「上町本町」といわれていたが、明治に入り「高知街本町」との区別のため、本町(丁)筋と改称。この通りは城下の主要道で、今の国道にあたり才谷屋や坂本龍馬生家などがあった。西端には、城下三番所の一つの思案橋番所があった。
③坂本龍馬誕生地
坂本龍馬(1835~1867)は幕末の志士。内外の時勢を思い文久2(1862)年脱藩した。勝海舟のもとで海軍塾の塾頭となり、亀山社中や海援隊を組織して貿易と政治活動に尽力した。慶応2(1866)年薩長同盟を成立させたが、翌年京都の近江屋で暗殺される。
毎年、11月15日にはここで龍馬誕生祭が行われる。
※碑有り
④才谷屋跡
才谷屋は坂本家の本家。寛文6(1666)年頃、質屋を創業、のちに酒・物品などの商いをひろげ高知城下の豪商となる。才谷屋三代目の八郎兵衛直益(1705~1779)は、才谷屋発展の基礎を作った人で、大浜姓から坂本姓に改め、長男の兼助を分家させ郷士坂本家の初代とした。坂本龍馬は郷士三代目の子として生まれた。 ※史跡・碑無し
旧 水通町
江戸時代の初めから、道路脇に紺屋が共同で造った用水路が通っており、水通町と呼ばれた。のち上流に堰がつくられ、住民の生活用水となった。職人や商人の多い町で、刀工の左行秀もこの町(関田勝弘の鍛刀場)で刀を鍛えた。
水通町の刀工
水通町は鍛冶、鞘師、鍔師、研師などの刀工、それに付随する職人の多い町であった。刀工関田勝広(1798~1855)は、水通町で山内家御用鍛冶を務めた刀工である。左行秀を土佐に招いたのも彼の尽力によるもの。
⑤近藤長次郎屋敷跡
近藤長次郎(1838~1866)は亀山社中のメンバー。河田小龍の門下生で、江戸遊学後神戸海軍塾を経て、亀山社中まで龍馬と行動を共にした。長州のために銃器やユニオン号購入の尽力の後、英国遊学を計画したが失敗し、社中の規則違反を責められ切腹した。
※碑有り
⑥思案橋
思案橋は城下町の最も西に位置し、この橋のたもとに番所が置かれた。名前の由来は、伊予街道から城下へ入る際に、南の通町、中央の水通町、北の本丁筋のどれにしようかと思案したためと伝えられる。現在の橋は大正15年に架設された。
旧 通町
江戸時代当初は武家屋敷があったが、のち武家に召し使われる中間などが住むようになり、通称から「御小人町」と呼ばれていた。慶安2(1649)年に野中兼山が町割を行い、一直線の通りになったため、通町と改称。
魚の棚
藩から魚類の小売りを許された場所のことである。下町では一カ所、上町では東部中央の本丁筋からその南の水通町を突き抜け通町に至る南北筋の路地にあった。
旧 南奉公人町
江戸時代、足軽や奉公人が多く住んでいたことに由来する町名。もとは内町といわれていたが、慶安2(1649)年に野中兼山により町割が行われ、南奉公人町と改称された。築屋敷ができるまでは鏡川の大堤があった。
龍馬の水練
少年期の龍馬にとって鏡川はかっこうの遊び場であった。姉の乙女にきびしく泳法を教わった話、「どうせ濡れるので平気」と雨の日も泳いでいたなどの逸話が残っている。
⑦水天宮
水天宮は、南奉公人町の鏡川大堤わきに、文政7(1824)年に久留米市の本社から勧請されたと伝えられる。河童のいたずら封じ、子供の水難除けとして信仰されてきた。
旧 築屋敷
城下を守る鏡川大堤の外側河川敷の竹やぶであったが、前に広い河原があったことから、宝永元(1704)年に町民が藩の許可を得て、自力で石垣を築き開発した片側町。後に、石築が延長され、職人も多く住むようになった。
⑧観音堂
本尊は行基作と伝えられる十一面観音。江戸時代は旧本丁筋五丁目の思案橋の西にあったが、明治初年に廃寺となり現在の位置に移った。今の建物は大正10(1921)年に竣工した。
⑨水丁場
水丁場とは水防のための防衛分担区域のこと。藩政時代鏡川北側堤防を、西は思案橋から東は雑喉場まで12の組に分け、武士と町人が協力して水防にあたるという組織であった。境界を示す柱石が一部残っている。 ※碑有り
⑩日根野道場跡
小栗流の剣術道場で、龍馬の頃は三代目日根野弁治が道場主。郷士の門下生が多く、龍馬もここで14歳から19歳まで修行し、「小栗流和兵法事目録」を受け、脱藩前の27歳で免許皆伝を受けている。
西町 周辺
土佐には下士と呼ぶ、土佐藩以前からの土着の武士や新たに武士に取り立てられた階級が存在した。坂本龍馬の坂本家もそういった下士のうちの郷士にあたり、同じ武士でも身分差は歴然としていた。西町周辺には龍馬と交流のあった下士の子弟が多く住まいし、彼らは新しい時代へ突き進んでいった。
楠山塾
楠山塾で勉学中の龍馬は、塾生と喧嘩になり、相手の刀を文箱の蓋で受け止め、事なきを得た。双方が退塾したが、龍馬の退塾は相手が藩士の子で遠慮があったためだ。上士と下士の身分差を強く感じた事件であったろう。
⑪坂本家の墓
高知市山手町にある。坂本家の墓所として近年整備された。郷士坂本家初代から父八平直足、母幸、兄権平直方、姉乙女の墓などがある。
西町周辺には、池内蔵太邸跡、望月亀弥太邸跡、弘瀬健太誕生地・邸跡、平井収二郎誕生地など龍馬ゆかりの幕末の志士たちの史跡が数多くある。